文化が客体化

まあ、なりきりもそれなりに面白ないわけやないけど、無理して東京言葉(とわしが思とう言葉やな)使こても疲れるだけや。今日は最初から関西弁でいくで。今日の話は「文化の客体化」や。

太田さんがこの概念を提出してきやはったときは、そらなかなか面白い思たで。いや、この概念そのものがやのうて、そこで太田さんがある現象にスポットライトを当ててくれはったことが面白かったんや。えらそーに観光にきたりする金も力も持った他所もんにあわせて、生活のためにはしゃあないでみたいに、せいぜいそいつらの期待通りの姿を演じて見せたろやないかと、けどそれが実は、いろんな要素を選択的に取り上げて組み立てて自己提示するちゅう創造的な営みでもあるんやっちゅう、それを見て他所もんらは単純にうはうは喜んどぉっちゅう。他所もんの中には、なんや、こいつらいんちきくさいで、「ほんまもん」やないでとかいうやつもおるっちゅう。土地のもんの中にも、わしらのやっとうことは「ほんまもん」ちゃう、いんちきやとか思とう連中もおったりするっちゅう。まぁ、どっかで見たり聞いたりしたような話や。けど、それまでは誰もそれを主題にして正面から論じてみたろと思ぉてなかったんやな。まぁたいがいの研究者も、それを、いんちきくさい偽もんやと思とったちゅうことやろか。「ほんまもん」ちゅう考え方にしばられとったちゅうこっちゃな。

人類学者がある儀礼について、なんでも知っとぉっちゅう評判のじいさんに話聞きに行っていろいろ質問しとったら、途中でじいさん、「ちょっと待ってや、そのことやったらごっつう詳しく書いてあるもんがあんねん、ちゃんと確かめなあかん」とか言うて、奥から持ってきたんが、昔その社会を調査した有名な人類学者の書いた報告書やったっちゅう、じいさん、実はその本を読んで得た知識を喋っとっただけやったちゅう、わしが学生の頃から聞かされとった笑い話の一つやけど、皆も聞いたことあるんちゃうか。ほんまもん探しっちゅうのは人類学のビョーキみたいなもんやった。ビョーニンにとっては、これは笑い事やないびびりまくりの状況なんやけど、笑い話にしてごまかしとったちゅうわけや。けどみんなうすうす気付いとったはずや。

太田さんのやったことは、まあお医者さんの仕事みたいなもんや。ビョーキを治すとまではいかんかったにしても、熱を冷ますくらいのことはやったんちゃうか。ほんまもん探しがビョーキやったとわかっただけでもたいしたもんや。今言うたみたいな状況が、笑い飛ばしたり無視したりして片付けてしまえる、つまらんことやのうて、それ自体、きちんと問題にしたらじゅうぶん面白い話やないかと気付かせてくれたんやな。

ビョーキ治してもろたちゅうのが、人が新興宗教に帰依したりする大きな理由やったりするけど、人類学のほんまもん志向ちゅうビョーキにかかりかけで治してもろた若い人らが、夢中になったんもわかるわな。いやぁ、そらすごいもんや。大学院受けに来る学生の2〜3人に一人は「文化の客体化」とか言うとるくらいや。実際はもっと多いかも知れへん。念仏聞いとうみたいな気がしてくるほどや。

太田さんの仕事はおもろかった。そやけど、その後に続いてる人の仕事は、ありゃなんや。場所や人やらがちょっこっと変わっただけで、同じような話の繰り返しやないか。ヴィヴァルディが同じ曲を200回書いたとか悪口言われとったらしいけど、ほんま同じ論文を何回も何回も読まされるみたいな、気がするで。デジャブやで。同じ念仏唱える、新興宗教の信者みたいに見えてくるちゅうわけや。

要するにや。話そのものはめちゃめちゃ単純なんや。そんなバリエーションもあらへんし、びっくりするような深みや新展開がえられるわけでもない。政治性についての話をアジ演説みたいにまぶさんと、とてももたへんくらい、単純な話や。いや、太田さんがほんまに言いたかったんが、この政治性の話の部分やちゅうことは、ようわかっとるつもりや。まぁ政治のことはあまり言いたないけど、政治っちゅうのは実際に体動して、状況にかかわっていかんことには、なんもならんのちゃうか。状況と関係のないところで、かっこよくしゃべってるだけやったら、自分に免罪符あたえとうだけのごまかしちゅうこっちゃ。正義の言葉で他人を非難するもんは、ほんまは非難されるもんと同じ場所におっても、自分は相手よりましやと思えるちゅう強みはあるわな。お手軽やな。太田さんの場合はそやないこと、わしは知っとう。そやけど、その尻馬に乗って似たような話再生産しとる連中はどうやろ。お手軽連中やないかな。

まぁ、こう言うたからゆうて、あんまりいきりたたんといてな。わし、自分がだめだめ男やちゅうことくらい、言われんでもよおわかっとおから。けどな、「お前それでいいと思っとおんか」とか、お前らには言われとないな。ドゥルマの人に言われるんやったら別やけどな。

なんや話が変な方向にそれてしもたな。ほんまはこんなことが言いたかったわけやない。「文化の客体化」の話やった。わしが疑問に思っとおのは、上の話な、あの他所もんのまなざしに合わせて演技するよう強いられとるようで、しっかり創造的に自己を提示しとるちゅうな、でそれのほんまもんさ、いんちきさをめぐる話が交錯しとるちゅうな、この話のどこが「文化の客体化」やねん、ちゅうことや。

太田さんの論文のインパクトあったところっちゅうか、うまかったところは、この話をするりと「文化」の話にして提示したちゅうことや。太田さんが意図してかどうかはしらんけど、実にうまいレトリック、構造的レトリックやったとわしは思っとる。この創造的な自己提示を「文化の生産・創造」やというふうにとらえたことや。で、この「文化」は自分らの手持ちのいろんな要素、過去から引き継いできたもんも、外部からとりいれたもんもいろいろあるけど、そうしたいろんな要素を選択的に選び取り、解釈した産物で、「文化」を「客体化」したことになっとるちゅう訳や。「文化」ちゅうとなんや大きな話、しとうみたいやろ。

ほんまか?とわしは問いたい。これがほんまに文化の生産・創造か?文化の客体化か?ほんまか?わしは「文化」ちゅう言葉を自分では分析概念として使うのはとおに止めとるけど、それでも人類学がこの概念を、自分らの説明モデル、記述モデルで中心的な役割を演じる分析概念として研ぎ澄ませてきとったことくらいは踏まえとる。この「文化」の概念と、上の文化の創造とか文化の客体化とかでの「文化」とは、ほんまになんか共通性があるんやろか?たしかに、上の自己提示の話な、その当事者たちは自分たちの「文化」を知ってもらうとか、伝えるとか、そんな言い方をしとるかもしれへん。そやけどこの人らが使ことる「文化」という言葉は、人類学の概念としての「文化」と同じもんやと考えて、ほんまにええんやろか。人類学における「文化」概念なんかどうでもええ、ちゅうんなら、それはそれでええ。そやけど太田さんの「文化の客体化」の議論の中では、人類学における「文化」の概念の間違いを正すみたいな形で話が進んでもおる。関係ないっちゅうわけやない。どうしても一つの議論の中に、全然異質な「文化」の概念が混在してしまっとうのが気になってしょがないんや。

その兆候いうたらおかしやろけど、みんな太田さんのもともとの論文、読んだことあるやろ思う。その中でちょっと変なことに気ぃつかへなんだか?繰り返し「何をもって文化とするか」ちゅう問が、有名な「誰に文化を語る資格があるか」ちゅう問とならんで繰り返し問われとう。文化ってなんや?と問うてはるわけや。やのに、論文の地の文の中には「文化」ちゅう言葉はまるで自明なわかりきった言葉としてばかすか使われとう。一方で文化という言葉で何が指されているのかがわかりきったことみたいに話が進み、もう一方で文化とはいったいなんなんやと問う。お前、いったいわかってんのか、わかってないんか、どっちやねん。

一方で、わしらが普段から日常の言葉として使ことる「文化」の概念がある。わかりきったものとしてそれが登場してるときは、この日常の使い方によっかかっとる。たとえば「歌舞伎は日本の文化やけど、劇団四季のキャッツはちゃう、ミュージカルはアメリカ文化や」とか「家に入るとき靴を脱ぐのは日本の文化や、靴履いたまま上がるんは、アメリカの文化や」「さば味噌は日本の文化やけど、ステーキは西洋文化や」とか、あるいは、「お前ら、あほか。ばかか。何言うとんねん。日本人のやっとうことが文化やろが。ミュージカルもステーキも、今の日本文化の一部や。あほが。」とか、まあここでいう「文化」は、文物や行動様式やね、そいつらを要素として含む集合みたいなもん、一そろいセットみたいなもんや。人類学での「文化」の概念は、最初タイラーあたりの時代は、ま、おんなじようなもんやったかもしれへん。けど今の人類学で文化をこんな風に捉えてる人は少ないんやないか?説明原理として「文化」を使っとるんやから。いろんな要素のひとそろいセットが何かを説明できるとは思えへんもんな。太田さんの論文の中からざっと拾っただけでも「(ある土地や社会と有機的に対応する)意味の総体としての文化」とか「自己規定の枠組み」ちゅうのがでてくる。さば味噌とか歌舞伎とかの要素の寄せ集めは「意味の総体」とは言えんわな。あんまり「自己規定の枠組み」らしくもないわな。つまり人類学の概念としての文化は、具体的にどう描かれるかは別やけど、とにかく、人々のさまざまな実践の背後にあってそれを生み出す、あるいはそれらを理解可能なものにする一種のシステムのようなもんとして、考えられてきとった。

同じように「文化」ちゅうても、それが指してるもんが、全然ちがう文化概念が混在しとる。問題は太田さんが文化の客体化として紹介してる実践、その事例で問題になっている「文化」がどっちなんやちゅうこっちゃ。一そろいセットの文化概念やとしたら、そのセットを新たに組替えることは、なんも「客体化」したことにはなってへん。日本人は茶漬けやで、とか敬語使わんととか運動したら、なにか客体化したことになんのか?「客体化」という概念が意味もつとしたら、主体にとってほんらい意識や操作の対象ではなかったものについて適用される場合だけや。自己やその行動を規定していた背後のシステムのようなものがあって、それが、言語学者が文法を分析記述することによって対象化、客体化するように、当の人々によって客体化されるちゅうんやったら、すごいことや。「文化の客体化」いうたとたんに、このすごいことが起こってるみたいな気分にさせられる。で文化が生産、創造されとるちゅうんやから、ますますすごい。けど、ほんまにそんなすごい現象が記述されとるんやろうか。

誤解せんといてや。わしは、文化を背後のシステムみたいなもんを指す概念として使いつづけることは難しいおもてる。わし自身はこの文化いう言葉、論文の中ではとっくに使うのやめてるんや。どないしたかて要素の集合、一そろいセットの概念と混線してしまうがな。そんな面倒な概念を必死に研ぎ澄ましてもあほらしだけや。そやけど、この混線のおかげで、すごそうに見える話もある。わしは文化の客体化の話ちゅうんは、この混線をうまいこと使こて、もちろんおもろいけどそれほどごっつうない話を、なんかめちゃすごい話にみせかけてしもとうように思うんや。もちろんわざとやないやろけどな。

わしをよう知っとお人やったら、わしの普段の喋り方は、ここでの言葉遣いとは似ても似つかんこと知っとおわな。普段は標準語にちょっと(本人はそう思とる)関西風のアクセントが混じる程度ちゃうか。なんせ奥さんが東京もんやったからな。わし人に影響されやすい人間やねん。そやから、ここでのこてこての関西弁はわざとや。なんか正義の味方のえらい人みたいな議論に、標準語で切り結んだら、こっちもかっこええ、ええ人みたいな話してしまいそうでいややったんや。別に関西人として自己成型して、何か客体化したり、したたかに抵抗したりしよ思うたわけやないから誤解せんといてな。びびらして、すまなんだな。

補足
Sat Mar 09 09:30:42 2002

こんなもん読んどる奴、おるんやな。なんや粘着質の罵倒メール送ってくれた匿名の@hotmail 君、メールさらしたろか思うたけど、やめといたるわな。無視するつもりやったけど、一点だけ答えといたるわ。

太田さんだけ特別扱いすんのか、って、あたりまえやんか。太田さんは特別なんや。わしの処世術やら関係あるかい。お前らとは格が違うっちゅうんじゃ。あんなぁ、他の人がぼけーっとしとるときに、自分で独力で問題にたどり着いて、それを提起するっちゅうんは、誰にでもできるちゅうことちゃうで。えらいことなんや。それに引き換え、お前らのしとることっちゅうたら、なんや?太田さんがした問題提起を、お前らただ繰り返しとってどないすんねん。人の言うたこと繰り返すだけやったら、そんなもん誰でもできることやないか。お前らがやらんとあかんのは、提起された問題を引き受けて、それを解決しよ、いうことやろ。そら難しやろけどな。それせんといて、自分が自分でたどり着いたわけでもない問題をえらそーに提起すんなや。はたから見とってみっともないで。そんなもん、今さらお前に言うてもらわんかて、太田さんがとっくにやってしもとうちゅうんや。

わしか?わしは太田さんとは人類学に対するビジョンちゅうんか?姿勢がちがうんや。わしはわしにできるしょぼい作業をやるだけや。そやけど、太田さんを尊敬しとうことは確かやで、そこんとこ勘違いせんといてや。


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp