他者の不在

ほんとうに久しぶりに大阪大学の中川さんのホームページに行ってきました。講義メモとかあって、なかでも「心と文化」なんていかにも気になる題目じゃないかいと。思わず引きこまれて読み進んでしまいました。ずいぶん気合の入った講義です。私だったら、とてもこんなテーマで学生に対して講義する勇気はない。全体がかっちりと組み立てられているのも、出発点だけ決めてその後は話しているうちにどう盛り上がるか盛り下がるか(たいてい後者なんですが)、日々手に汗握る(もちろん聴衆がではなく講義する私がなんだけど)私の講義とは大違いですね。各回の講義の中身も、相変わらずクリアカットでキレの良い議論です。あまりのリスペクトに、今日はつい「ですます調」になっちゃってるほどです。

中川さんと私とは傾向が似ている−−中川さんのほうがはるかによく勉強していて、はるかに体系的で、はるかに切れ味が鋭いというささいな違いはあるものの−−という話も聞きますが、実は私は中川さんの実にきれいに整理された話を読むたびに、強烈な違和感を感じてしまいます。今日はそのあたりをちょっと考えてみようと思います。

おそらく私も中川さんも民族誌の実践において言語ゲームを主題化しようとしている点では同じだと思うんです。でもそのどの部分を問題にしているのかが、もしかしたらまったくかけ離れているのかもしれません。

私にとって、一番の謎というか面白い部分は、なぜ言語ゲームがそもそも成立しうるのかという問です。というか答えがないことがわかっているのだから問いというのも妙なのですが。言語ゲームの最も驚くべき点、神秘は、それが成り立っているということ自体なのだという認識が、私にはあるのです。そう、ウィトゲンシュタイン経由の見方です。中川さんにとって、おそらくこの部分はまったく問題ではないようです。中川さんは成立した言語ゲームの確実性の内部で、それがいかに成り立っているかを語ろうとしている。規約の共同体が前提としてあり、そうした共同体がそもそもいかに可能であるのかについては問われていない、と言い換えてみても良いかもしれません。

中川さんはモースの論文集に寄せたレヴィ=ストロースの有名な序文を繰り返し引用して、「規約は共同体のメンバーによって一気に獲得される」と述べられています。規約の共同体は一気に成立するのです。まるで言語ゲームが成立し、規約の共同体が成立してしまった後では、それの成立がいかに危うく困難なものであったか、その事情が思い出せなくなってしまうかのようです。柄谷行人がこの問題をめぐって述べているように、規則はつねに実践の後からのみ見出されるのですが、つねにすでにそこにあったかのように見出されるのです。中川さんは、言語ゲームが成立した後、規約共同体が成立した後という、この特権的な時点から語り始めます。そこからは、言語ゲームの無根拠性を露出させてしまうことによってゲームの成立を根本から脅かす他者性の問題はまったく抜け落ちてしまいます。

任意の共同体において、つねにすでに言語ゲームが成立しているというのなら、中川さんのやり方でいいではないかと考える方もおられるかもしれません。しかし現実の世界においては、実は実践の「後」という特権的な時間など存在しないのです。それは回顧的な、現象学的なまなざしの中にのみ保持される時間に過ぎません。そして実践は常に未来に開かれ、そこにはつねに他者が出現し、意味は敗北し、共同性とそこでのゲームの閉鎖性に亀裂が生じうるのです。ゲームの規則の自明性をゆるがす、モノを知らない子供や異邦人、「無思慮で馬鹿な指し手」たちは例外的な存在どころではありません。かれらの存在はあらゆる言説空間の恒常的な特性です。こうした言語ゲームを共有しない他者にゲームを教えるという、成功の保証のまるでない企てが、我々のコミュニケーションの大きな部分を占めていることに気付いていない人がはたしているでしょうか。ウィトゲンシュタインが言っているように、コミュニケーション、私がある言葉によって何かを意味することが出来るということそのものが、ある意味では奇跡とすら見える出来事なのです。

「私は言いたい。君は人が誰かに何かを伝達できるということを、あまりにも自明なこととみなしすぎていると。」

中川さんが、次々に提示してみせる明証的な差異や区別の数々は、言語ゲームが成立した後の特権的な時点においてのみ確実性を獲得します。一つ例をあげてこの点を示してみましょう。

たとえば中川さんは、講義『心と文化』の第五講「『私』から他人を作る方法」で、「経験から意味を導くことが(は)出来ない」ことを示そうとしています。この命題自体、規約共同体が一気に成立するという主張とも響きあう、意味の成立後に、その起源の実践が隠蔽されることによって生じる錯視とも思えるのですが、それはともあれ、この命題を主張する際に中川さんが立脚する一つの区別があります。経験的命題と分析的命題(中川さんはこれを意味論的命題と言い換えておられますが)の区別です。「独身者は金づかいがあらい」が前者の例、「独身者は結婚していない」が後者の例として挙げられています。

「このペアーにまったく問題はないであろう。「独身者は金づかいが荒い」を意味論的な命題ととるような粗忽者はいないだろう。「けちな独身者」があなたのまわりにいても、そのことで、あなたは、「まるい四角形」を見つけたときのような大騒ぎをする必要はない。経験的な命題は、いつでも訂正可能なのだ。「独身者は結婚していない」を経験的命題ととるものもいないはずだ。あなたのまわりの独身者をひとりひとりチェックして、彼女らが結婚しているのか・あるいはしていないのかを統計をとることによってこの命題「独身者は結婚していない」が導出されたとは、誰も思うまい。「独身者」の辞書的定義が「結婚していないもの」なのだ。 」

実に明快ではありませんか。中川さんは、こうして経験的命題をいくら積み重ねても、意味は見出せないと論じます。経験的命題はけっして分析的命題には変身できないからです。この独身者についての二つの命題を見れば、いったいこの二種類の命題を混同するなどということがありえるだろうかという気になるのも無理はありません。両者の区別はあまりにも歴然としています。日本語をマスターしたと思われる私やあなたにとっては。

「浪費家」という名辞についても同じように経験的命題と分析的命題を区別することが出来るでしょう。今度は「浪費家は金づかいがあらい」が分析的命題。金づかいのあらい人のことを浪費家というのですから。それに対して「浪費家は結婚していない」は経験的命題。たまたま身の回りの浪費家が独身者ばっかりだったりすると、こうした命題を経験的に主張したくなることもあるでしょう。

いずれの場合も、分析的命題と経験的命題は日本語をマスターした人にとっては自明な区別です。しかし私たちは、どのようにしてこうした区別を学ぶことができたのでしょうか。どのようにして日本語を知らない他者にこの区別を教えることが出来るのでしょうか。

次の二つの文章を考えてみてください。

ドゥルマ語をマスターした人にとっては、どちらかが経験的命題、もう一方が分析的命題なのですが、皆さんにはどちらがそうなのか見当もつかないはずです。

これらの例で、分析的命題と経験的命題を区別することができるということは、要するに、「独身者」「浪費家」「ムンダーカ」という言葉を学ぶということと同じことなのです。あたりまえのことを何をくどくどと、とお感じになったかたもいらっしゃるでしょう。でもムンダーカの例でわかるように、この教えること−学ぶことが、何の問題もない平坦な過程であるとはとてもいえません。「独身者」「浪費家」という言葉をおそらく正しく学んでしまった我々にとって、そうでない形で我々がこれらの言葉を学んだかもしれないという可能性はほとんど想定すら困難でしょう。すでに飛び越えてしまった深淵は、後となっては簡単にまたいで通れる敷居程度にしか見えません。しかしモノを知らない子供や、異邦人、無思慮で馬鹿な指し手たちが、この区別をまったく別様にとってしまう危険は、そしてそのような仕方でその言葉の用法が既成事実的に承認されてしまう可能性は、けっして皆無ではなかったのです。私がムンダーカなどという変な言葉を持ち込んだのは、この学び終えたものの視点をちょっと相対化したかったからです。

分析的命題と経験的命題の区別についても、次のように問うべきだったのです。我々はこの区別をどのようにして学ぶことが出来るのか。あるいは他者にこの区別を間違いなく教えることは何によって可能なのか。なにがその成功を保証しているのかと。そして答えは「必ずしも保証されていない」というものなのです。

言葉を教え−学ぶ実践は、たいていの場合首尾よく成功しているではないかとおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。でも99%の可能性はけっして100%の確実性の代わりをつとめることは出来ません。たいていの場合うまくいくということがコミュニケーションにおける意味の実現から、賭けの要素を取り除いてはくれないことは、我々のほとんどが日々実感していることではないでしょうか。コミュニケーションは、ヤコブソンのような言語学者が描いてみせてくれている、共有された規則に基づいたメッセージのエンコード/デコードなどといった平坦な出来事ではありません。もしそうならそれはモノローグとなんらかわりないことになります。それは常に失敗の危険の伴う賭けです。もちろんだいたいにおいてはうまく行きます。二人のあいだでコードが共有されていたからではありません。うまく行ったから、規則が共有されていたことになるのです。規則はつねに実践の後から確定します。規則が実践を前もって保証できないということ、これが実践を賭けにするものであり、実践が「他者」を相手にしているということの意味です。このあたりは柄谷行人の議論のほとんど受け売りみたいですね。

「規約共同体」がそのなかに「他者」を出現させてしまうこと、これは単なる不幸なノイズ、単なる偏差ではありません。それは規約が「恣意的」で無根拠であることからの必然的な帰結です(浜本 2001「秩序の方法」を参照してね)。すべての実践とコミュニケーションを賭けにするこの不確定性は、それを捨象することによって理念的なシステムの記述が可能になるような非本質的な雑音ではなく、実践とコミュニケーションをまさに根本において規定する本質的条件なのです。これを考慮にいれずに、ノイズレスの規約体系を描こうとする中川さんの試みは、いささか倒錯的だとはいえないでしょうか。

うむむ、一気に書きなぐってしまいましたが、どうも生硬でこなれてない議論になってしまいました。もっと熟考して慎重に議論しないと、なかなか上手く言えることではなかったようです。というわけで、この項目に関しては、これまでの断章のように書きっぱなしではなく、これからもリヴィジョン、リライトを加えることになるでしょう。今回は、とりあえず一回目の書きっぱなしということで、いささかまとまりのないままで終了することにします。

追記1
Thu Mar 21 14:52:25 2002

ちょっと気になって柄谷行人の「探求I」を引っ張り出してきて読み直してみました。ガーン!ショック!というか、私が書いたことって、自分で自覚していた以上に徹底的に、そして不完全に、柄谷の受け売りだったですね。やれやれ。知らない間にここまで強烈に影響下にあったとは。読んだのは10年以上も昔なんだけど。

ただ8章の議論はあきらかに不十分だし、9章で囲碁の比喩を使いながらウィトゲンシュタインの言う規則=囲碁の定石として、逆に囲碁の規則そのものの規約性を温存してしまっているような議論はいただけないと思います。これだと中川さんの議論の反論になるどころか、それをむしろ追認するような議論になってしまう。柄谷を論じるつもりで始めた訳じゃないので、これらの点にはあまり深入りしませんが。

他者に規約を教えることのとてつもなさは、それを「規則」として教えることが出来ないこと。そのためには規則の概念がすでに共有されていなければならない。さらに「納得づく」で受け入れさせることが出来ないこと。なぜなら無根拠なのだから。利得にうったえることもできないこと。まるで釣るべき餌もないのに必死に誘惑しているみたいなもの。「結婚していない者のことをムンダーカというのです。」「どうして?」「とにかくそう決まっているのです。」「なんで私がそれを認めなければならないの?」「...」規則を学ぶとは、根拠抜きでそれにしたがうこと。柄谷は「教える」ことを「売る」ことになぞらえています。彼の資本論の読みはすばらしい。ただ「教える」ことは元手なしに「誘惑」する行為にもなぞらえることができるかもしれません。


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp