この雑文を書くのが、明らかに自分にとっての現実逃避になってるってことを自覚する今日この頃だ。こんなことやってないで、ちゃんと研究しなさい>私。でも、まあ今回だけは大目にみてやることにしよう。
ってわけで、集合的記憶だ。
「集合的記憶」やそれに類する言葉は、大学院のゼミや研究発表でも最近よく耳にするようになった。先週のゼミでも後半は、その議論だったよね。たしかに魅力的な比喩なんだけど、比喩がいつもそうであるように、比喩であることを使ってる本人がまったく自覚しなくなってしまうと、かなり危ういことになる。
もちろん、比喩の魅力ってのはたいてい、現実そのものとの区別が限りなく曖昧になったあたりで発揮されるものだし、実際そのうっとりさせる靄のなかで、既成の概念区分が乗り越えられたりぼやけたりして、新しい発見や洞察がえられることが多いってのも確かだ。私だって、皆さんご存知のように、ある程度は自覚的だけど、いろんな比喩を試してみたりしている。まだそれについては文章の形では一つも書いていないのに、5年位前から連発しているいくつかの言葉があるでしょ。「想像力」とか...。つかっている比喩が、ただの比喩にすぎないとあまりにもはっきりわかってると、使ってる本人もしらけてしまったりするわけで、使っている本人が比喩の魔力というか魅力というかに、自らある程度魅せられてしまってることは、重要だ。でも、自分勝手な話だけど、他人が自分が使っている比喩に酔って、まるでそれが比喩だってことを忘れちゃってるみたいに見えると、はたで見ててちょっと白けて、水でもぶっかけたろかって気分にならないでもない。ちょっと性格悪いかも。というわけで、集合的記憶みたいな話が話題になるたびに、いつもいぢわるなことばかり言ってる私なわけだが、最近同じことを繰り返すのにちょっと飽きてきた感じもある。ゼミでのおしゃべりなどでは、論点はどうしても小出しになって、一貫してない。このあたりでまとめて提示しとくのも悪くないかもしれない。その方が、皆も反論しやすいしね。
まず仮に集合的記憶っていうのを、集団が記憶してることだってことにする。でも集団には脳も心もない。結局、思い出したり、覚えていたりするのは一人一人の人だ。
さて、ここで「いや、集団にはちゃんと心や思考がそなわってる!」とか言う人、別室に来てください。個人的にお話しましょう。(いや、からかっているわけではなくて、それなりに議論すべき論点があるんだけど、今はそこまで行ってしまうと話が収拾つかなくなるってことで。)
記憶っていうのは、結局は個々の個人の心的、精神的機能に言及している。もしそうだとしたら、集団が記憶してるっていうのは、結局どういうことだろう。集団の全員が覚えているってことかな?それとも誰かが覚えていてくれたら、それで集団が記憶してるってことになるんだろうか。全員がって言っても、集団には1歳の赤ん坊から90過ぎてボケちゃった老人もいるだろう。全員がってのは、どうみても無理がある。じゃあ、何パーセントの人が覚えていたら、集団の記憶なんだろう。って、明らかにそういうことが問題になってるんじゃないよね。
さらにいつのことの記憶が問題なんだろう。もし例えば20年前のことだってんなら、20歳以下のメンバーがそれを覚えてるってのは、無理な注文だ。でも集合的記憶の話をする人は、よく何十年も前、それどころか100年以上前のことを問題にしているよな。こうなると、もう個人の記憶作業の問題でそれを語ることはできなくなる。だって誰だって、経験してもいないことを思い出せったって無理な相談である。思い出すことすらできないことを、なんだ覚えてないのか、ちゃんと覚えててくれないと困るなんて責められても、どうしようもない。もしそれが可能なんだとしたら、警察につかまって、やってもいない万引きの記憶を無理やり思い出させられるなんてことにもなりかねない。いやんである。そんな羽目に陥らないためにも、やはり、やってもいないこと、経験しちゃいないことは思い出せないんだ、記憶できないんだよと、強く確認したいところである。やってねえことは思い出せねえんだよ、あにき。
でも、学校で日本の歴史を習って、鎌倉幕府が「いい国つくる」だとか、たしかに覚えさせられた。という意味では、日本の過去の出来事をちゃんと覚えているっていえるんじゃないか、なんて反論が来そうだ。馬鹿言っちゃいけない。それは別に過去の出来事を覚えているってんじゃなくて、「鎌倉幕府がいい国つくる」って命題やら鎌倉幕府成立ストーリーやらを、つまり過去についての「語り」を覚えているってことだ。それを出来事の記憶だって言っていいんだとすれば、僕なんぞ、何十億年も前のビッグ・バンだって、地球の誕生や生命の発生の瞬間だってちゃんと覚えてるぞってことになる。こうなるとまるで神様みたいだが、やっぱり、それはちょっと違うんじゃないか?
ここまでのところ、集合的記憶ってのは、どう見てもあまり出来の良い比喩とは言えない。結局、過去についての物語が、どんな風に覚えさせられ、思い出されるかって話にすぎない。昔々あるところでといった御伽噺と違って、100年前のうちのご先祖の源五郎が...といった形で「過去」についての実際にあった話だということで流通しているだけで、問題は、物語がどんなふうに語られ、流通し、語り継がれ、想起されるかという問題だ。その点では、御伽噺や滑稽譚の語り継がれの研究と、理論的にはまったく同じ問題系に属している。それをことごとしく過去の「記憶」だの、「集合的記憶」だの言わないで欲しい。ここには物語りを記憶するってことを除けば、記憶の問題などどこにもない。
さて、これで降参した方は、記念のテレフォンカードをもらってお帰りください(この件についてのお問い合わせはご遠慮願います)。周囲の景観の要素、たとえばしかじかの岩、どこそこの泉、朽ち果てた遺跡などに、集団の集合的記憶が重層的に沈殿しているとかおっしゃる方、実にすばらしい比喩的表現で、あまりにも美しくてあくびが出てきそうだが、そうしたお方にも、この際いっしょにご退席していただきたい。個人の記憶にとって、さまざまな具体的な事物が、特定の過去の記憶と結びついていたり、その想起のきっかけになったりってことはある。僕なぞ、ちょっとしたつまらないものを見るたびに、死別した妻のことを思い出しては悲しくなるなんてことしょっちゅうで、個人の記憶に関してはよくあるありふれた話である。でも、それとこれとは別物だ。人々が自分たちの集団の過去と結び付けているとかいう、そうした岩や山を見ることで、誰も、実際に経験もしていない過去を思い出したりしているわけじゃない。それは覚えた「物語」を思い出したり語ったりするきっかけであったり、特定の「物語」がそれと結び付けられていたりしているだけの話だ。
繰り返すが、ある事物が特定の物語を思い出すきっかけになるってことと、その物語が言及している過去の出来事を思い出すきっかけになるってことは、全然別だ。僕が暗い部屋の電気をつけるたびに、ビッグ・バン理論をふと思い出すからといって、そのことが僕がその都度、宇宙誕生の出来事を思い出しているってことにならないのと同じである。僕は神様じゃない。「記憶」という比喩が、そこらへんを混同させる作用をおよぼしているのだとしたら、それは発見的比喩というよりは、むしろ有害な比喩だろう。集団的過去の「記憶」なんて、言わずに、すなおに物語りの転送・流通過程を研究してますって言ってください。その方がよほどわかりやすい。
えっ、なるほどその特定の事物に対して個々人がもつ経験の記憶と、その事物に結びついている物語とが重ねあわされる可能性を問題にしたいんだって?それはなかなかいい論点かもしれない。明日香の悲恋物語の舞台で、実際に恋愛しちゃったりってことになると、経験には格別な(ってたいしたことないけど)奥行きが備わったりするかもしれない。で、そういう特別な場所で、人々が参加して演劇的なパフォーマンスやら、いかにも個人の記憶に深く残りそうなイヴェントを演出することで、それに参加する人々が物語をヴァーチャルに生きたりするってこともありそうだ。大いに研究してください。でも集団の集合的記憶とかの観念で必要以上に飾り立てないでね。だって、物語の転送・流通過程と同じように、わざわざ比喩で飾り立てずとも、それとしてちゃんと研究できる話なんだから。
さて、降参せずに残った、上の議論にたっぷり反論をお持ちの皆さん。集合的記憶って言葉でなされている、これとはちょっと違った研究について、次に触れたいと思うので、しばらくそれに付き合ってください。
それは今まで論じた「物語」の語り継ぎ、想起といった問題とは、一見まったく別の問題系に属しているみたいに見える。
例えば、以下は架空の例と考えて欲しいが、こんなケースだ。東アフリカのある社会の徹夜の憑依儀礼のクライマックスで、ゴドニという名前の一人の霊が決まって登場してトランス状態の女性に憑依する。現れると誰彼構わず怒鳴り散らし、杖を振り上げたり、周囲の見物人に殴りかかったり乱暴な荒ぶる霊だ。人々にこの霊について説明を求めても、昔からいる霊で、出てくるときにはいつもあんな具合だ、って程度の説明しかしてくれない。だが、あるとき人類学者ははたと気付く。ゴードン将軍だ!つまり人々が植民地時代にもった恐ろしい経験の記憶が、この憑依儀礼のなかにトランス状態の振る舞いとして保たれてきたのだ。
さてこの場合、人々自身はゴドニとゴードン将軍のつながりにまったく気付いておらず、また植民地時代のこの経験を語り継いでもいない。しかしその経験は、トランスという身体パフォーマンスの中に「記憶」され、繰り返し「想起」されているのだ。っと、まぁ、上のはずいぶん雑な議論だけど、だいたいこんな風な立論だ。
ドゥルマの人々の間で行なわれる憑依儀礼でも、例えばケヤの白人と呼ばれる霊が出てきて、銃に見立てた棍棒を肩に担いで行進の真似事をする。ケヤというのは植民地正規軍KAR(King's African Rifles)のドゥルマ風読みである。"Why" とか"twenty shillings"とかの断片的な英語を交えながら、訳のわからない言葉でどなりちらす。ただ、この場合、人々は植民地の経験を語り伝えてるし、ケヤが植民地軍の兵士であることも知っている。そんなわけで、語り伝えてもいないし、すでに知識も失っているのに、行為として「記憶」されつづけているって構図にはなっていない。
ほんとはP・ストラーの研究を例にとって言えばよかったのだろうけど、彼の研究は議論にちょっと破綻がありすぎて紹介しづらかった。まぁ、ストラーは似たような議論で、西アフリカのこうした憑依儀礼を、植民地経験の身体化された記憶なんだとかいっているわけだ。
先週ゼミで扱った論文の一つも、この手の立論の例だ。奴隷貿易時代のシェラレオネ、奴隷貿易の恐怖の経験は、奴隷として連れ去られた人々が洋上で、あるいはヨーロッパで白人に食べられたり、あるいは白人の冨を増やすため殺され神に捧げられるといった恐怖の噂話という形をとった。時代は下り植民地時代、領民たちの労働の収奪を通じてヤシ油などのヨーロッパ向けの交易品を集め富裕化していった首長や交易者たちをめぐって、彼らがヒョウやワニに変装して人々を襲い、殺して自分たちの冨を増やすための魔法の薬を作ったりしているんだという噂が広まっていた。人々は富んだ首長や交易者たちを殺人のかどで、植民地行政官に直訴したりしていたという。さらに今日、都市部の豊かな有力者たちをめぐって、彼らが犠牲者の臓器を用いて、自分たちの権力と冨を増やすための呪薬を作るために、殺人を行なっているという噂が人々を恐怖にたたきこんでいる。こんな風に、時代ごとにことなるさまざまな収奪の経験と結びついて、同じ形の噂話が繰り返し流行するという形で、奴隷貿易時代の記憶が繰り返し想起されているのである、ってな話だった。歴史的な過去についての物語の語り継ぎっていう、最初に検討したやつとの違いは、ここでは過去の歴史的経験が、その経験そのものについて語る物語として語り継がれるのではなく、オカルト的なホラー・ストーリーに形を変えて繰り返し語られるって点だ。悪夢の継承という形で、ある本源的な恐怖の経験が継承され、想起されているってことになっている。
実は、この種の議論は人類学にとってけっしてそう目新しいもんじゃない。記憶って言葉こそ用いていないが、かつてのケンブリッジ学派の儀礼論なんてのは、もっぱら同じような構図で歴史的つながりを示すことに夢中だった。だから、年配の先生方が見ると上で述べたような議論はかえって古臭く見えるに違いない。
さて、こういった議論における「記憶」(「集合的記憶」であれ、「文化的記憶」であれ。ちなみにストラーは「文化的記憶」って言ってる。)って言葉は、もう「覚えている」とか「想起する」とかいった精神的活動とはなんの関係もない。だって精神的機能としては、誰も何も思い出しているわけではないって言うんだから。これは「記憶」の比喩的使用法の一つを思い出させる。体が覚えているって言うやつだ。「俺はそんな昔のことはとっくに水に流したさ。思い出したくもねえ。だがねぇ、おくさん、この傷がどうしても忘れてくれねえんだよ。」といいつつ恐喝する男って図だ。ストラーは、文字通り身体化された記憶なんて言ってるが、そこまで言わなくとも、これら一連の立論が主張しているのは、結局、誰も頭では覚えてないけれど、儀礼が「覚えている」んだとか、語り継がれる恐怖譚が「覚えている」んだとかってことだ。やはり「記憶」の比喩的使用の一つだ。それも比喩としてはかなり苦しい部類の比喩だ。
この比喩が、何を記憶に譬えているのかを考えてみさえすれば良い。過去においてある出来事が起こった。その出来事の「痕跡」がいろいろな形で今日の習慣や、諸制度の中に残っている。それだけの話だ。これを単なる比喩以上の意味で「記憶」だと呼んでよいどんな理由があるというんだろう。それが「記憶」っていうんだったら、たとえば、昨日の大喧嘩で割れた皿がテーブルの上に残ってるのを見て、「おお、この皿め。昨日の喧嘩をよく覚えていやがるな」なんてことになるはずだ。痕跡は、それを過去の出来事と結びつけて解釈する者がいて初めて想起になる。ただし、それはその解釈者の記憶と想起であって、けっしてその痕跡が何かを覚えていたり、想起したりするってことじゃない。単なる痕跡で、それを過去の自分の経験と結びつけて解釈する者がいないってんなら、それはもう誰にとっても、いかなる意味でも「記憶」の問題じゃない。
過去の出来事の痕跡が、誰かがそれをきっかけに過去の出来事を思い出す(もちろん思い出すことが出来るのは、彼自身が経験したことだけだ。あるいは上でも論じたように、過去についての語りを思い出すだけだ。過去についての語りを思い出すことは、過去の出来事そのものを思い出すこととは別だ...ってしつこいか?)って形で、記憶と結びついていることは良くある話だ。このことを、その痕跡が過去を覚えているんだなどと語る比喩的な語り口もある。パソコンのハードディスクがしかじかのデータを記憶しているなんて言い方になると、この比喩がもうほとんど死んだ比喩として日常表現化しているのがわかる。もちろんハードディスクは痕跡を刻んでいるだけで、記憶などしていない。ちょうど割れた皿が、単に痕跡であって、何も記憶しているわけではないように。
過去の出来事の痕跡をさまざまな事物や慣行や制度のなかにトレースする研究は、おおいに結構である。ケンブリッジ学派のようにただの憶測じゃなくて、きちんと歴史的に証拠立てることができるなら、立派な歴史研究だ。ただ、それを文化的記憶だとか、集合的記憶だとかの、ナンセンスな御託で飾らないで欲しいってことだ。単なる痕跡の研究ですって言えばいいじゃないか。
どうだろう?まだ降参しないで、反論を抱えて残っている人はいるだろうか。やっと腹を割って話せるときが来た。 実は、ここまでのいぢわるな批判は、一つの公理から出発していたってことに、みんな気がついてたよな。つまり「記憶」っていう言葉の本来の意味、比喩的じゃないもともとの使い方は、個人の心的、精神的機能についての記述だって前提だ。だって、そうだろ?集団やら、事物やら、脳も心も持ってないものが何かを覚えていたり思い出したりするわけがない。何かを覚えていたり、思い出したりするのは一人一人の個人の精神的心的作業なのだ。この前提に立って、集合的記憶やら文化的記憶やらの議論のよくあるタイプをばったばった切ってとったわけだ。もちろん、この程度の武器で切ってとられる議論など、もともとたいした議論じゃない。
でも、本当のところは、この前提自体にちょっと怪しいところがあるんだ。集合的記憶の議論の際にたいていの論者が言及するアルバックスの「集合的記憶」だけど、全体的にはたいして面白くもない話に終始しているとはいえ、ただ一点、決定的に重要な指摘をおこなっている。それはいわゆる個人の記憶ってのが、必ずしも個人が自分の経験から一人で作り上げたものなんかじゃないって指摘だ。つまり人の記憶ってのは、彼個人によってではなく、さまざまな他者とその語りによって構成され支えられているってことだ。記憶の内容そのものが、他者の語りに浸透されている。そして想起という行為も、けっして個人が自分のうちに持っている記憶の貯蔵品を、よっこらしょと取り出すだけの行為ではない。しばしば、他者とのコミュニケーションを通じて、彼がもっていたんだかいなかったんだか実は定かではない記憶が思い起こされたりするのだ。アルバックスの議論は、集団が何かを記憶しているとかなんとかのすでに批判済みの話としてではなく、記憶というもの、つまり個人の記憶というものそのものが、集合的な過程によって出来上がっているんだって形でとらえたときに、初めてその意義があきらかになる。それは僕ら人間が、けっしてスタンド・アローンの精神マシンではなく、言説空間というネットワークに常時接続し、自己を成形し更新しつづける存在なのだということを、あらためて確認させてくれる。過去についての物語を想起することと、自分が実際に経験したことを想起することとの、最初の批判を行なう際に固執した区別が流動的になるのはまさにここだ。私が自分が実際に経験したこととして記憶していること、思い出すことが、すでに他者の語りに浸透されているのだから。
さあ、皆の反論、展開を待ってるぞ。
先週の「集合的記憶」をめぐる議論について、3人のかたからコメントを頂きました。メールでコメントを寄せてくださった二人のFさん、そしてIさん(Iさん、はじめまして。返事はお出ししてませんが、この文章で返事に代えさせて頂きます)、どうもありがとう。
Fyさん。Fyさんの指摘は、物語を語り継ぐことを「記憶」(その物語が述べている出来事の)と言い換えることで、ある種の共同的な主体のようなものが喚起されるということですよね。だからそれを「記憶」という言葉で呼んでいるのが「誰」であるのかに、もっと注意せねばならないという論点だと理解しました。つまりFyさんによると、人々(マイノリティや弱者、被害者を想定されているようですが)が、自分たちが語り継いでいる物語を記憶という比喩で語るのは、語りの一つの相の重要な分析テーマになりうるが、研究者が他者の語り継ぎの問題を「記憶」としてロマン化するのは、きわめてうさんくさいという。重要な指摘だと思います。
もう一人、Ftさん。私が「集合的記憶」を物語りの転送過程の問題にしてしまっているのは、問題の矮小化ではないかという指摘だと理解しました。言語化されないものの転送、流通も考えに入れるべきだと。つまり私が「痕跡」と呼んでしまったものも、同様に反復、転送されうる、つまり、出来事の痕跡の「語り継ぎ」ならぬ「振る舞い継ぎ」(身体的なものの場合)のようなプロセスもありうると言うことですね。私の先週の文章が舌足らずで、申し訳ありませんでしたが、もちろんそうしたプロセスの存在も念頭において、書いていたつもりだったのですが、たしかに語りの方ばかりがクローズアップされていることも確か。それをはっきり指摘してくださったことには感謝します。
前回の文章では、私は議論の展開を皆さんに投げるような形で、文章を締めくくりました(というか面倒くさくなった)。前半の議論の土台となっていた、個人の「記憶」なるものの特権化(それをいわば「実・記憶」という位置に据えて、それをもとに「記憶」という言葉の比喩性に乗っかった議論を次々と論じ倒したわけですが)を、個人の記憶が集合的(社会的)なコミュニケーションのプロセスに支えられたものであることを指摘することで、最後にいわばひっくり返す形で、皆さんに議論を投げたわけでした。その先には、私が先に特権化したところの個人の記憶すら、社会的プロセスを媒介した「出来事の痕跡」であること、語り継ぎそのものが痕跡の反復、転送、流通の過程のひとつに過ぎないこと、語り継ぎのいわばデジタルな転送に比べて、振る舞い継ぎのもつアナログで不確定性により多く晒された転送過程のもつ問題点などが当然、見えてくるはずです。
実はもう一人、集合的記憶の問題をずっと扱っていた大学院生Yさんのコメントも期待しているのですが、学会発表の準備でそれどころじゃない御様子。でもコメント待ってます。そのうちにどうぞ(ってほとんど強要?)。それまで、私自身は議論を先に進めないことにします。
さて、Iさん(学外の方ですが)には、本を一冊紹介していただきました。岡真理『記憶/物語』岩波書店。もうタイトルから言って、そのものズバリで、まあ、こんなそのものズバリの本の存在を知らずにいたりするところが、私の信じがたい勉強不足人生の縮図といったところです。また、ここで私が書いたりしていることが、論文にするほどきちんとリサーチし、文献をおさえていないような、私の研究テーマの外にある傍系のお話にすぎない(居直りみたいですが、ちゃんとすべての重要な文献をおさえて議論するくらいなら、こんな場所に書いてないで論文書きますってことです)所以でもあるわけです。でも指摘されたら、読まないわけにはいきません。実は昨日コンサートに出かけた帰りに本屋に寄ってさっそく購入しました。これからさっそく読ませていただきます。ということで続きは後ほど。
というわけで岡真理の『記憶/物語』(岩波書店)だ。思考のフロンティアというシリーズの一冊で、薄い本なのでちょっと助かった気分だ。なかなか面白かったです。おわり。
って訳にはいかないだろうな。実は、私にはちょっと苦手なタイプの本だった。
「<出来事>の記憶は、他者によって、すなわち<出来事>の外部にある者たちによって分有されねばならない。何としても、集団的記憶、歴史の言説を構成するのは、<出来事>を体験することなく生き残った者たち、他者たちであるのだから。これらの者たちにその記憶が分有されなければ、<出来事>はなかったことにされてしまう。起こらなかったことにされてしまう。その<出来事>を生きた者たちの存在は、他者の記憶の彼方、「世界」の外部に放擲され、歴史から忘却される。」
こういった、熱くてシリアスで、ちょっと陶酔気味の、レトリック過多の文章を読むと、背中がぞわぞわしてしまう。これは第二部の冒頭の文章なんだが、この辺りから結末に向かって、レトリック度はぐいぐい上昇し、最後には「許してください、もうしません」みたいな気分になってしまった。いや、自分でも思うが、私はつくづく退屈でつまらなん奴だ。ここは素直におおーっと感動すべきところなんだろう。
著者が繰り返し語るのは、たとえば戦乱や虐殺のなかで突如襲い掛かる無意味な死のように、出来事の暴力性に打ちのめされた人々だ。彼らはその経験を誰かに語って、その記憶を他者に「分有」してもらおうとする。しかしそれは不可能な企てだ。出来事は、物語には回収できない過剰性を抱えている。この物語に回収できない余剰の部分こそ、彼らを今なお「領有」しつづける出来事の暴力性にほかならない。つまり彼らはその過剰性故に、今なおその出来事を繰り返し生き続けている。著者が彼らとともに「分有」したいのは、まさにこれだ。著者は、一方では彼らにその出来事を繰り返し生きなおすことを強いる行為--彼らに経験を語らせること、それを再現させること--の暴力性について語る一方で、それを「ナショナルな物語」に回収して「終わったこと」にすることによってそれを「領有」してしまうたくらみにも強く抵抗する。なぜならこうした形での出来事の「領有」は、それを生々しい現在のこととして繰り返し生きざるを得ない人々の生そのものを忘れ去り葬り去ることだからだ。出来事の外部にいる者は、出来事をすでに終わったこととして物語に回収してしまうことなく、出来事の内部の人々が出来事について語るその行為そのものをひとつの「出来事」として受け止め、それをまさに現在のものとして生きる必要がある。そのとき出来事の外部にいる他者は、まさに他者であるがゆえに、内部にいる者の語りの余白や、いいよどみ、沈黙の中に、その出来事の暴力性、過剰性の「痕跡」をただしく見つけ出す証人であることができる。
一回さっと読んだだけなので、不正確かもしれないが、だいたいこういった内容だった(間違ってたら教えてください。訂正します)。
本書の中身のほとんどは、映画評論や文芸批評や著者自身の経験についての考察など、とことんエッセー的な材料なのだが、まあそれらを通じて、上のような主張がくりかえし熱く語られているわけだ。この手の記述は、人間が生きる現実とその中での実践のあり方を、できるだけ実証的に、そしてできるだけ正確に、妙な強調や味付けなしに明らかにしたいという社会科学的な記述とは、あきらかにその目指しているものが違うわけで、こうした映画評論みたいな議論に、概念規定がどうのとか、論拠がどうのとか社会科学的なしつこさで突っ込みを入れるのは、なんだか恥ずかしいような気もする。でも著者自身も、たとえば「ワンダフルライフ」みたいな設定そのものが荒唐無稽な映画に、深刻な顔つきで突っ込み--そこに登場する死者たちが日本人ばかりで、在日とかが登場していないのはいかがなものか、みたいな「なんだかなぁ」なツッコミ--を入れたりしてるわけで、これから私が行うなんだかこっけいでばかばかしい批判と、おあいこってことにしたい。
『記憶/物語』は、この断章で私がいちゃもんをつけてきた集合的記憶の議論そのものとはあまり関係がない。むしろ過去の出来事を、民族や国家のナショナルな物語に回収してしまうことを批判してるわけで、それらを「集合的記憶」として語る語り口自体の批判だと言ってよいくらいだ。(Iさんが、どういう意図で私にこの本を薦めてくださったのか今ひとつ明らかじゃないので、説明していただけるとありがたいのだが。)さらに、本書全体がレトリックにあふれているので、いまさら「記憶」という言葉だけをとりあげて、その比喩的な使用について目くじらたててみてもしかたないような気もする。関西お笑い芸人風のツッコミになってしまう。相方が大真面目なので、ますます白けてしまう。なんとも気が進まない。
まずいきなりだが、冒頭の「<出来事>の記憶を分有するとはいかにして可能だろうか」という著者の問い。いかにしても何も、「記憶を分有する」ってことがどういうことだか、まずはっきりしないと分有しようもないってことになる。字義通りのことだとするとたいへんだ。そんなことが可能な日には、万一殺人犯の記憶を分有してしまって、警察でつい自白してしまうなんてことにもなりかねない。って、やっぱりお笑い系のツッコミにしかなってないな。でも、とにかくもしこの問いが、本書全体を貫く問いなんだとしたら、分有するってことの意味をどっかではっきりさせといてほしい。
また著者は、著者自身のマドレーヌ体験--あ、プルーストの有名なあれですね。ちょっとしたことが引き金になって、忘れていた過去がその細部にいたるまでリアルにたちあらわれてくるってやつ。その描写もなんだか白けるくらいおおげさなんだなぁ--をもとにして、記憶って言うのは、普通は「『私』が主体として、思い出されるべきことがらに対して『思い出す』という能動的作用を及ぼしているように表現される」けれど、いつもそうではない、別のありようがある、つまり「記憶が--あるいは記憶に媒介された出来事が--『私』の意思とは無関係に、私にやって来る」といったあり方、「『記憶』こそが主体である」ようなありかたがあると述べる。
これはそのとおりだ。
しかし読み進んで行くにつれて、いつのまにかこの例外的なあり方が、記憶の本来のあり方にされてしまっている。「出来事は暴力的に人に回帰する。人が想起するのではない。人の意思とは無関係に到来する出来事が、人にそれを想起せしめるのである」って訳だ。これに対して、人が主体的に参照する記憶は、言語化によって出来事の余剰性を切り落とし、過去のものとして飼いならされた出来事だと言って切り捨てられる。でも、どうこう言っても、こうして切り捨てられたものの方が、普通の形態なんだということは忘れちゃいけない。さもなければ、受験生は試験場でいつも、記憶が自分の意思とは無関係に到来してくれるという一かばちかの賭けにさらされているってことになってしまうだろう。少しは主体的に想起しないと、受験勉強はほとんど無駄になる。特殊的なものを強調するってのはもちろんわかるんだけれど、レトリックで特殊なものこそ本来というふうに思い込ませるのはよしてほしい。
また「物語」を小さな共同体に帰属する者たちによって共有されるもの、「小説」をひとつの地域や共同体を超えて読まれるものと定義するのは著者の自由だけど、そうだとしたら、「小説」は国民の形成を前提とするという帰結は、すでにこの定義の中になかば含まれていることにも気づかなくっちゃね。で、小説は世界を俯瞰する神の視点から書かれている→でも近代西洋は神のいない人間の世界だ→神に代わるもの、世界を俯瞰する小説の視点はしたがって国家である、ってちょっと論理が飛びすぎてませんか?
あーあ。最初のほうから目に付いた箇所に突っ込みを入れてきたけど、まだ10ページちょっとか。重箱の隅的あら捜しをしているみたいで、やってるほうがむなしくなるのでやめます。おそらくこういった形で検討を受けることを念頭においてない本だと思います。読者は感動しつつ、あおられて、「これではいけない。なんとかしなければ」という気持ちになればよいのだと思います。私も実は著者の立場そのものにはすごく共感がもてるのです。出来事の暴力性、それについては語ろうという気すらおきない、出来事による呪縛についても実感してますし。
でも私がこういう煽り系の文章(人類学でも最近よく見かけますが)が苦手なのは、約束したり駆り立てたりはするものの、煽られた後どこに着地すればいいのか、その場所をぜんぜん示してくれないことがしばしばだからだ。というか、その目的地は思いっきり比喩的にしか語られていないので、いざ着地しようとしたら何がなんだかわからなくなってしまう。これじゃ煽られて舞い上がった者がかわいそうじゃないか。本書もその例外じゃなくて、最後に、ある意味感動的に「難民」化というわけのわからないヴィジョンが示される。
「「難民」−<出来事>をナショナルな歴史/物語として,決して領有しない者たち.人間が<出来事>を領有するのではなく,<出来事>が人間を領有する,そのような<出来事>を生きる者たち.<出来事>の記憶を「物語」として領有するのではなく,<出来事>として分有するのは,この,難民的生を生きる者たちだけだ.<出来事>の記憶の分有の可能性とは,私たちが「難民」に生成すること,難民的生を生きることのなかにある.
まず,「難民」になること−このような出来事のすべてが起きてはいけないところとしての祖国,未だ実現されざる祖国への帰還を他者とともに夢みる難民に.」
もちろん、比喩だ。誰だって好き好んで難民になったりするものじゃない。そんなことを言ったら、本物の難民に申し訳ない。もし本気だというのなら、まずわかっているあなた自身から難民になってみてください。でも、ではこの難民化が単なる比喩だとしたら、それは何をたとえているのだろう。どういう具体的な実践の形態がもとめられているんだろう。まさか気のもちようだけ、なんてことはないだろうな。出来事を「分有」するってのは、たんなる共感の一種ってことになってしまう。それなら最初っからそう言えばよい。
といった具合に、私は比喩に置き去りにされてしまう。
それにこの難民化宣言、なんとなく昔の左翼インテリがワイン飲みながら、プロレタリアートとの連帯を夢見、自分たちが貧しい労働者階級じゃないことを嘆いて見せていたのとちょっと似たおぞましさがあるぞ。
乱筆、乱文お許しください。
不一