意味の物神性

週一くらいのつもりで始めたんが、月一になってしもたな。まぁ、倒れそうな自転車操業が始まってしもて、それどころやあらへんちゅうんもある。飽きてしもた、ちゅうんがほんまのところやったりするけどな。そんなわけやから、これからはその気になったときに、思い出したみたいに書かせてもらうだけになるやろな。今日みたいにな。実は、先週まで学生さんらが学振祭りで、浜本もなんやわさわさしとったわけや。雰囲気に影響されやすいやっちゃねんな。その学振祭りも金曜日で終わって、ま、わしも久しぶりに登場っちゅうわけや。なに?酒飲んどるやろて?ほっといてんか。

そやけど、登場しても、特になんも言いたいことあらへんっちゅうんは、ちょっと物悲しいもんがあるな。いや、いろいろネタはあるけどな、どれもなにも今言わんかてえやないか、みたいなな。そやな、前に「時間」のこと書いたけど、その続きっちゅうか、ネタばらしのネタばらしっちゅか、やってみたろかな。あの「時間」の話な、アクセス・ログとかみたら、あんまり読まれとらへんみたいや。きっとピンとこん話やったんやろな。ただ一人めちゃめちゃ鋭いつっこみ入れてきた奴がおって、それが博士課程の某I君や。I君ちゅうたら、去年の暮れにタンザニアの調査から帰ってきよったばっかしやけど、なんせあかんたれの浜本と違ごて、まともにしっかりウィトゲンシュタインやらカントやら読んどうっちゅうくらいの変わりもんや。あの話のネタのネタをしっかり見抜いて、議論ふっかけてくるもんやから、浜本もなんやどぎまぎしとったで。

マルクスの貨幣の物神性の議論ちゅうたら、交換ちゅう実践を通じて成立する商品と商品の相互参照関係が、どないして商品にそなわった「交換価値」ちゅうなんやら普遍的な実体みたいなもんとして現象するんやろちゅう、その機序を解き明かしてくれたもんやな。でそれをみずから体現する貨幣っちゅうんが変な存在やちゅうんは、マルクスの比喩を使こて言うと、動物園の中で狼やら熊やらと混じって「動物」ちゅう生きもんが歩きまわっとるみたいなな、論理階型の混同の上に成り立っとる存在やからやっちゅうな。まぁ、あたりまえの話やねんけど、ここでマルクスが使った議論立ては、別に貨幣の話だけやのうて、物象化一般、論理階型の混同に基づく文化的諸現象一般に対しても、当然有効なはずやわな。あの「時間」の話は、そのことのデモンストレーションちゅうかな、実演販売みたいなもんやったんや。別になんも「時間」の話が特に解明すべき問題やったっちゅうわけやあらへん。

ま、I君は当然そこらへんを見抜いて、いきなり本題に突っ込んで来よったっちゅうわけやけど、読んだ他の人らはどないやったんやろな。「時間」についての話やと考えて、時間についての哲学的議論には興味ありませんっちゅうところか、それとも、頭ええ人ばっかりやから全部お見通しで、今さらなにあほなこと言うとるんじゃ、ちゅうことやったんやろか。ほんまのところはわからへんけど、前者の方やったら寂しすぎるさかい、アホみたいやけど、今日もう一回念押しといたる。別の問題で同じ議論を使こてみたろっちゅうわけや。今回はでっかく行くで。「意味」の問題や。

ま「意味」ちゅうたら、やっかいな問題や思われとうみたいやけど、それは皆が問いを「意味とはなんや」て形で立ててしまうからや。それについては、浜本が若い頃ごちゃごちゃ書いとるから、まぁ暇やったら、読んでやってくれ。象徴性についての一般理論に向けての試論とか、えらいたいそな副題つけた一連の論文やけどな。3本目まで書いたとこで未完になっとる。フィールドワークのデータの整理やら、分析やらの方が面白なってしもて、理論的な基礎付けの問題に時間が割けんようになったんやとか本人は言うとるけど、ほんまはめんどくさなってしもたからや思うで。ほんまにへたれなんや、あいつ。まぁそれはともかく、そこで「意味」について一つの結論として言うとるんが、こういうこっちゃ。

「従って「意味とは何か?」という問いは、実は空しい問いなのだ。というのは意味とはけっして「何か」ではないからである。それは何かが置かれているところの関係性の複数性が問題にされ、それが問われ、答えられる際に展開される一連の言説をそれによって組織するところの言葉である。それは通常の名辞の多くとは異なり、「何か」に言及する言葉ではなく、通常の名辞によって言及されうる「何か」どうしの独特な関係について、二つの独特な仕方で関係しあう所識態相互の関係について、語る言葉なのである。それは「何か」そのものに言及する通常の名辞とは異なる論理階型に属する言葉である。」

ようわからんてか?たしかに若い頃の文章で、気合も入りすぎとるし、えらいとんがっとるから、ちょと難儀な文章や。そやけど、要点は「意味」っちゅうんは、意味が問題になっとるもんどうしの相互参照関係に言及するもんで、そやから、意味が問題になっとる当のことがらとは異なる論理階型に属する概念なんやっちゅうこっちゃ。そやのに、その一方で、意味ちゅうたら、ソシュールの記号の二面性にも表われとるように、言葉の音としての姿の裏になんや張り付いとる何かみたいなな、そんなもんとしてどないしても考えとうなる。な?商品の交換価値とおんなじ現れ方やろ。論理階型の混同、物象化がおこっとるんや。もしそやったら、「意味」についてもマルクスの同じ論法が使えるっちゅうんもわかるやろ。

こっから先は宿題や。みんなでやってみ。ほなな。

とか言うて、めんどくさいからそれで止めたろ思たんやけど、今読み返してみたら、何にも実質的なこと言うてへんわな。しゃあないから、ちょとみっともないけど、この先も自分で言うてしまおか。たとえばな、人から言葉の意味聞かれたとき、どない言うて答える?「『うそぶく』ちゅうてどないな意味やねん?」「ああ『うそぶく』ちゅうんはな、『おおきいこと言う』とか『えらそなこと言う』っちゅう意味や」とか答えるやろ。これて、意味が問題になるときの基本構文やな。他にもいろんなやり方で意味を問題にすることはでけるけど、まぁこれが基本やろな。これを「単純な意味形態」あるいは「偶然的な意味形態」ちゅうとこやんか。


うそぶく=おおきいこと言う、えらそなこと言う
  A    =    B

等号の左辺を「相対的『意味』形態」、右辺を意味の等価形態、あるいは「等価『意味』形態」て呼んどこ。この等式が示しとんのは、「うそぶく」ちゅう言葉はそれ自身では自らの「意味」を示すことがでけんで、「おおきいこと言う」とかと等置されてはじめて、「おおきいこと言う」ちゅう言葉の「意味」によってその「意味」を示してもらうことができる。これに対して、「おおきいこと言う」ちゅう言葉の方は、それ自体で自明な「意味」をになっとるように見える。もちろん左右を反対にしたら、立場は逆転するんやろな。この場合はちょと不自然やけどな。

こんな意味関係の際限ない連鎖を「拡大された意味形態」ちゅうて呼んどこ。


うそぶく = おおきいこと言う、えらそなこと言う

たばかる = 策謀をめぐらす

策謀 = はかりごと

はかりごと = もくろみ、計略

もくろみ = 計画、設計                  (以上すべて広辞苑)

などなど

さて、ここまで来て、みんな「あれ?」思たんちゃうかな。貨幣の物神性の話では、このあと「一般的価値形態」が出現して、体系が中心化することになっとる。けど、意味の場合は中心化せえへんやんかて。

そもそも意味と商品の交換価値とはいろんな点でちゃいすぎや。価値は単一のスケールで大小を比較できるけど、意味にそんな単一のスケールはあらへん。そもそも意味に大小あるわけでもないしな。ちゅうか、交換の場合の貨幣にあたるもん、意味の場合にはないやんか。なんや、お前、意味の問題を物象化論として展開するみたいなえらそなこと言うといて、全然ちゃうやないか。もう、こんなしょもない話しかでけへんねやったら、おっさん出てこんでええわ。ひっこんどれ。

さよか?みんな、ほんまにそない思うか?マルクスの論法は、意味の問題にはあてはまれへんて?

もし、ほんま、そないに思とるやつおるんやとしたら、とことんあほやな。わしのひっかけに気ぃつかんかったんかいな。上の話から貨幣にあたるもんが出てこやへんのはあたりまえや。そやかて言語がそれにあたるもんやねんさかい。言語こそが「意味」の貨幣なんや。言語が、いろんな事象やら出来事やらの「意味」がその「意味」によって表示されるところの一般的意味形態に他ならへんのや、っちゅうことに気ぃつかんかいな。交換価値の場合はな、単一次元のスケールやから、貨幣はたかだか1円、5円、10円....みたいな単純な体系しかもっとらんですむ。もし表示せんとあかんもんが、多次元的なスケールをもったもんやったら、その場合の「貨幣」の体系は当然めちゃめちゃ複雑になるわな。言語がそれやねん。浜本によるとやな、

「ソシュールの説がよく示しているように、言葉はその存在をとりわけ自らがおかれた関係性のみに負っている存在であり、まさにこの特性のゆえに、自らの相貌のうちに関係性を示し、あるものについて語ることによって、まさにそのものの置かれている関係性とそこでそれがとる姿を明るみに出すことができるのである。」

まぁ、ひっかけてすまなんだな。けど、ポイントはわかってもらえたんちゃうかな。貨幣における価値の物象化にしても、時間の物象化にしても、意味の物象化にしても、それが体系化する仕方はそれぞれ違ごとるけど、その謎の核心は最初の非対称的な等値関係[ A = B ]の中にひそんどるちゅううことやな。Aは自らではその価値、時間、意味を示すことは出来ず、他者Bの価値、時間、意味によってそれを示されなあかんちゅうこの関係な。ここに社会的実践の必然性が埋め込まれとるんやし、他者との賭けをはらんだ共同性の契機があるわけなんやから。

まぁ、価値やら、時間やらと一緒で、意味っちゅうんも出来事どうしの相互参照関係の一種やわな、それがその当の出来事に貼り付いとる(あるいは別の比喩やと、その出来事を容器みたいに考えてその中に入れて運ばれるっちゅう)何かみたいに見えてしもとうわけや。交換価値の場合、貨幣がこの関係をもっとも抽象的に体現してしもとる一般形態として、論理階型の異なるレベルを横断するもんとして出現しとるわけやが、意味の場合は、言語ちゅうんがそれにあったとるちゅうわけやな。ほらみてみ、貨幣の場合、みんなときどき貨幣いうても、ほんまはそれ自体何の値打ちもないただの紙やないかとか思もたりするわな。ほんまにそないに思うんやったら、わしにくれ、言いたいとこやけどな。それとおんなじように、言語の場合も、ただの音やんかとか、紙の上のインクの染みやんかとか思てみたりすることもあるわな。まぁ、その存在の幻想性をこんな風にときおりちらつかせて見せよる、っちゅうとこも、まぁ、よう似とるわな。

今日、わしちょっと根性わるやったな。みんなもあるやろ?なんやらむしゃくしゃして、人に悪態ついたりしとうなるときて。ま、かんにんな。






補足 Tue May 28 22:33:20 2002



今日、I君からさっそくメールでのコメントがあったで。なんや上で名前出したから、まるで催促したみたいになってもた。そんで、ちょっとメールでやりとりしたんやけど、その一部は上で言うとることの補足になる思うから、わしの返事の方をここにのせとこ思う。

まずな、「意味」に関して一般的等価形態に立つものがありうるんやろかっちゅうことに関するやりとりな。自分とこは文の乱れとか修正しとる。ちょっとずるいやろけど、まぁ、わしそんな人間や。

> その後、記号と貨幣のアナロジーを進めていくと、一般的等価
> 意味形態に立つ記号なるものを考えるのは無理な気がしてまい
> りました。

私は「言語」こそが、この一般的等価意味形態の体系にあたるものでは ないかと思うのですが。
重さや長さや価値といった単一尺度のものの等価形態は、単一の 対象の形をとることもできる(あるいはきわめて単純な体系-- 日本円の貨幣体系のような、単なるスカラーな体系)けれど、 意味に関しては言語体系の総体という形でのみ等価意味形態を考えることが できるのではないか。その内部では当然自己言及的、反照的に 相互の意味を示しあうことになります。
(貨幣体系の場合も 10枚の10円玉=1枚の100円硬貨 みたいな形で自己言及的、反照的に相互の価値を示しあっては いるのですが、なにしろシステムというには「単純」すぎ)

あるもんが一般的等価形態として自分を提示しとるっちゅう場合、それ 自身の価値を問うことがでけんようになるっちゅう点についてのやりとり。

> この貨幣の価値はどれだけか、とか、このメートル原器の長さ
> はどれだけかという問いに対しては、貨幣を他の全ての商品の
> 価値をそれ自身との比較で測るものとしてみなすのをやめない
> かぎり、メートル原器を他の全てのものの長さをそれ自身との
> 比較で測るものとみなすのをやめないかぎり、そのような問い
> を問うことは正当化されえないと答えることができるのに対し
>

必ずしもそうは言えません。
例えば1万円あれば何が買える?という形で1万円の価値を 他の商品によって示すことが可能です。
相対的価値形態=等価価値形態 の両辺に立つ項は、瞬間的に あるいは局所的にはつねに逆転可能です。

というか子どもが「お金」を学習する際には、つねにこうした 逆立した等式から始めるのではないでしょうか、100円もらって 駄菓子屋に行って、これで何が買えるのか....という風にお金の 「価値」を学んでいく。

言語の場合も、言葉の意味を指示対象を示すことによって教える などという際に、この逆立が生じています。

> この記号の意味は何かという問いを問うことを同様の理由で
> 不当なものにしてしまうような特権的な記号はかんがえられな
> いためです。
>

注意したいのは、お金の「価値」を問うような状況が、かなり特殊 な(社会変動、経済危機、あるいは子どもによるお金の学習)場面 であるように、言葉の(あるいは記号の)「意味」を問わねばなら ない状況も、どちらかというと特殊な状況であると考えるべきだと いうことです。
通常のコミュニケーションが成立している場面では、我々は自分が 使っている言葉の意味を問うたりしません。

いかがでしょうか?

なにが「いかがでしょうか?」や。きどるんやないっちゅうんや。わしもメールでは礼儀ただしいやろ?

ま、それはともかく、このやりとり、じつは第二信で、その前にも一回やりとりがあったんや。そっちではI君からウィトゲンシュタインの「確実性について」のなかに類似の観点が示されとるちゅうこと教えてもろた。多謝やで。わし、読んどるはずやねんけどな。それもけっこう最近な。それでも指摘された3箇所の引用のうち、一箇所しか覚えとらへんかった。歳とるっちゅうんは、こういうこっちゃ。


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp