イデオロギー

なんや、なんにもやる気が起きひんよってに、夕べに引き続いて、もういっちょ、とびきり短いのん行くわな。これも先週のゼミでちょっと議論になったことや。わしが「イデオロギーなんちゅう言葉使こたら、話が変な具合になってまうから使わんとこぉや」とか言うて一部の反発買うてしもた件な。議論の中で一応説明したけど、文章化しといた方がええかもしれん。

イデオロギーちゅう言葉を使こて、ある問題に焦点あてたろ思もてんのは、ようわかる。後で言うように、そらあけっこう重要な問題なんや。そやけど、それ差し引いてもイデオロギーっちゅう言葉には、かえって話を変なふうにしてまう危険がある思うんや。一部で、ものすご特殊な意味で使われとった言葉やからや。

まずな、イデオロギーいうたら、現実に対するまちごうた認識、現実を歪めたり隠蔽したりする語り、みたいな意味でよう使われてきとった。ある言説をイデオロギー的やっちゅうことは、その言説を貶す一つのやり方になっとった。そやけど、それ言お思もたら、一方で、イデオロギーやない語り、現実を正しく写しとる語りみたいなもんを考えんとあかんことになってしまう。現実を正しく写しだした語り/現実を歪めてとらえる語り、なんちゅう対立がなんの疑問もなく前提になっとるっちゅうんは、ちょっとナイーブ過ぎてどもならんのや。おまけに他者の語りをイデオロギー言うて糾弾する当の本人は、自分の認識は正しい思もてしもとるわけで、これもなんとも能天気でどもならん。なんでお前、自分ばっかり正しい思もてられんねん?あんた何もんやねん?ま、ちょっとわしには付き合いにくい人やっちゅうことはわかるけどな。

それとな、イデオロギーいうたら、支配階級っちゅうか、力をもっとるもんに都合のいい語り、みたいな意味でとらえられとる。これさらに進めたら、イデオロギーいうたら支配する側が自分らの支配がうまく行くように、自分らの利益のために作り出して、支配されとる側に信じさせたろ思もて、わざと流通させとる語り、なんちゅう極端なイメージにまで直結してしまいかねへん。けど世の中、力もっとる悪人と善人とにすぱっと別れとるみたいなおめでたいイメージでもあるわな。

いや、そうやない。そういう特殊な意味に限定せんようにイデオロギー概念を拡張したいんや、て言いとなるかもしれん。実際、上で見たみたいな含意を抜きにして、もっと一般的な形でイデオロギーちゅう言葉を使お思てる人もいっぱいおるやろ。そやけど、なんで、そうまでしてこの言葉使いたいねん?どないしても、すぐに上の二つの用法に引っ張られてしまうっちゅうのに、そんな危険まで冒してなんでこの言葉にこだわるんやろ。それが、わし、わからんっちゅうんや。だいたい、そこまで拡張したら、それただの観念体系とか言説群とかいうんと、どう違うんや?やっぱり現実の「誤認」とか、権力関係との結びつきとか、考えてしもとるんちゃうんか?

イデオロギー、イデオロギー言うくらいやから、みんなもテリー・イーグルトンの本、読んだやろ?このおっさん、イデオロギー概念を丁寧に片っ端から検討していってくれてはって、おぉけっこおもろいやん、とか思うて読んどったら、結局なんのかの言うても上の二つの方向に戻っていってしもとるやないか。やっぱりそう来るかぁて、皆もがっかりしたんちゃうか?とにかくイデオロギーっちゅう言葉は、いろんな負荷がかかり過ぎとる言葉で、わしにはちょっと使いにくすぎや。もしわざわざ使わんでええんやったら、使わんですますに越したことないんちゃうかて、どうしても思もてしまうんや。

そやけどな、ゼミでも言うたように、イデオロギーて言葉で何か言お思もてる人は、語りについての、重要な問いに注目してるっちゅうことも確かなんや。誰かがある一連の観念、命題群を信奉することが、社会の誰かにとって得やったり損やったりすることがあるんやろか、っちゅう問いや。ま、分かり易すう言うたら、語りの損得勘定的側面やわな。なに?ええかげんなこと言うなて?まぁ、えやないか。そんなとこや。もしこの問いがおもろいっちゅうんやったら、イデオロギーみたいな言葉使こて変な風にしてしまわんと、その問いだけをきっちり問うたらええんや。

わしがある命題(群)を信奉しとることは、わしにとってなんか得になってるんか、損になってるんか、わしがそれらを信奉しとることで、誰かが得しとるんか、それとも誰かが損しとるんやろか。逆に、誰かがある命題(群)を支持してくれとうことで、わしはなんか得しとるんか、損しとるんか。それによって他の誰かで、得したり、損したりしとるもんがおるんか、まぁ、こないな風な一連の問いや。

そら、こんな損得勘定の光あててみてもしょうがない語りも、それこそいっぱいあるはずや。そやけど、こうした問いの光を当ててみて、思いもかけんことが明らかになるような、そんな語りもあるやろな。ちゅうわけで、語りを研究する上で、この種の問いもたまには持ち出して見た方がええことは確かや。言説空間のダイナミクスみたいなもんが、この種の分析から明らかにされるやろて予想してもええと思う。ただそればっかりやったら、ちょっとかなんわな。それこそ、損得勘定ばっかしが大事やないんや、っちゅうて言いたなるわな。

イデオロギーっちゅう言葉使こた分析が、言説の損得勘定のはなしばっかりやないっちゅうことは、そら知っとるわい。まるで穴でも空いとるみたいに、ある言説空間において可能な語りの、ある部分が語りの中ですぽっと欠落しとるとか、ある事柄については何でか知らんけどある形でしか語られんようになっとるとか、いかにも現実の誤認っちゅう意味でのイデオロギー概念で問題にしとうなるようなことな。そやけど、そこらへんこそ、イデオロギーなんちゅう言葉使わんと、言説空間の分析--そのコミュニケーションの回路や網の目の研究、そこを流れる語りの可能性の総体の研究みたいなな--で、真正面から扱うことやがな。イデオロギーみたいな言葉持ち出してきたら、変なバイアスかかって邪魔なだけや。ま、そういうこっちゃ。


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp