解釈学的アプローチ再考

夏学期もあと数週間の辛抱やけど、燃費の悪いわしとしては、最後までガス欠にならんとたどり着けるかどうかが、ちょっと心配な今日このごろや。S君の博士論文の審査報告書の提出もなんとかぎりぎりで間におうたことやし、ほっとしたところで、久しぶりに断章を追加しといたろ。ちゅうても、授業の準備だけで精一杯やったわしに出来ることちゅうたら、ま、ゼミでちょっと喋った内容を文章化する程度のことや。

今晩は、晩飯は久しぶりにお好み焼き焼いて食べてん。もちろんビール飲みながらや。さあ、行くで。酔いが醒めてしまわんうちが勝負や。

連休明けあたりからアフリカの憑依についての80年代に書かれた民族誌を続けて読んできとったんやけど、たまたまどっちも解釈人類学っちゅうか解釈学的アプローチのラインにそった研究やったちゅう訳やねん。まぁ、わしにとっては10数年ぶりくらいの再読や。10数年前は、解釈学的アプローチゆうたら、けっこう若い人らのあいだで、もてはやされとったような記憶がある。わし、へそ曲がりやから、わざと解釈人類学の批判したり難癖つけたりして、当時の学生さんらの神経逆撫でして楽しんどったもんや。それが今はどないや。学生さんら「今どき解釈学的アプローチですか?はぁ?」みたいな感じで、すっかりお見限りのご様子やんか。まぁ、この10年ほどのあいだの日本の人類学の理論状況の変化からしたら、わからんでもあらへんけど、ちょっとびっくりしたで。へそ曲がりなわしは、今度はちょっと弁護したらんならんみたいな気になってしまうやないか。解釈人類学はんの方では、わしに弁護してもろても、あんまり嬉しないやろけどな。

解釈学的アプローチっちゅうても、実はけっこういろんな範囲の研究を含んどる。神話とか図像とか解釈します、とかいう研究も含まれとるかもしれんけど、そこらへんはまぁ、お好きにどうぞちゅう感じやな。もともと意味を読み取られるべき対象としてあるもんやから、それを解釈するでぇ、ちゅうても、別にことさら特別なことするちゅうてるわけやない。なんも問題あらへんちゅうこっちゃ。ことさら「解釈学的や!」とか言うことで、なんや特別なこと言うとるみたいなことになるんは、もちろん、一見したら別に「意味を読み取られるべきもの」として起こっとうわけやない事象、つまり人間の社会的実践一般にそれが適用された場合や。人間の行動を、意味を読み取られるべきテキストとして扱うちゅうときに、このアプローチの最も強い、問題含みの主張が全面展開することになるんや。

この立場に立つ研究者それぞれでちょっとずつ違うかも知れへんけど、それはだいたいこんな一連の命題を含んだ主張やと言えるやろ。
(1)人間の社会的実践・行動は、それ自体、自らが属する社会や文化についての解釈行為なんや。
(2)そやから社会的実践は、社会や文化について何かを語るテキストなんや。
(3)人類学者は、それが意味しとるもんを読み取らなあかん。それは人々自身の解釈行為を、解釈するっちゅうことになるんや。
これにさらに次の二つを付け加えてもええかもしれんな。
(4)実は、その社会の人らの方でも、こうした一連の「行動によって書かれたテキスト」の意味をそれぞれに読みとっとる。
(5)そやから人類学者の仕事は、「行動する人びとが自ら書いたテキストを自らどのように読み取っているかを読み取ること」(小泉潤二はん 1984)なんや。

もっとも、わしの見る限り、ちゃんと(5)やっとるちゅうのはあまり見たことない。だいたい(4)の読み取り(解釈)活動の結果が、どこにどんな形ででてくるんか、わしには見当もつかへん。ちゅうことは、研究しようもないっちゅうこっちゃ。まぁ、具体的にはどうやったらええかわからへんっちゅう点では、ギーアツの「人々の肩越しに読みとろう」ちゅうのも、困ったもんや。わし背低いよってに肩越しはちょっと難しいんや。ってそんな意味やないやろけどな。ほなら、どうせえっちゅうんや?まぁレトリックに噛みついてもしゃあないけどな。そやけどギーアツの、バリ人は男が攻撃され侮辱され、怒りの極地で完全な勝利か敗北に追い込まれたときどんな風に感じるかを見るために闘鶏に出かけるんや、みたいなまとめにしても、当のバリのおっさんらに「わしら別にそんなもん見てへんで」とか言われてしもたら、もうおしまいみたいな気がするねんけどな。

まぁ、いろいろ文句はあるやろけど、解釈学的アプローチのど真ん中にあるんは(2)の命題やろ思う。(1)は(2)が成り立つちゅう以上、当然認めんならんことやろな。社会や文化について何か語るっちゅうことは、それについての理解を提示するちゅうことやから、それ自体が対象を理解する行為、解釈する行為やっちゅうことになるわな。そやから、(2)がちゃう、っちゅうことになったらこのアプローチ全体がわやになってしまうわけや。やっかいなことに、今いちばん胡散臭うて、怪しげに見えとるらしいんは、この(2)の命題みたいやねん。

こう反論しとなるんちゃうか?「あんなぁ、おまえ、人間の行為っちゅうんをなんや思とるねん。社会的実践いうたらちょい大げさかもしれんけど、とにかくわしらの実践は状況に働きかけてそれを変えよとしたり、そこから何かを得よとしたりするもんやっちゅうこっちゃ。なにも、社会や文化についてのわしの思弁を表現して、それを人に読みとってもらおとか思て行動しとるんとちゃうわい。こっちは生活かかっとるんじゃ、われ。テキストちゃうわい、働きかけじゃい。」まぁ確かに何かを言おうとするテキスト作り、っちゅうてしもたら、なんや生活の生々しさが消えてしまうみたいな感じするわな。まるで人類学者に鑑賞してもらうために生きとるみたいな奇妙な具合や。

確かにこのアプローチには、人類学者の観照的スタンスちゅうんかな、ブルデュが文句言うとるやつな、そのいやな臭いがぷんぷんしとるちゅうんは事実や。実際、このアプローチは人類学という企てそのものに内在する傾向性、ようするに癖やな、それを理論的に正当化しとるみたいなところがある。

人類学者が、たとえばアホの浜本の場合な、現地に行ったろ思たときの第一の目的ちゅうたら、ちょっと漠然としとるけど、まぁドゥルマ社会なりドゥルマ文化なりを知ったろちゅうことやろな。そら、対象をこないな閉じた全体性みたいなイメージで考えとるところからそもそもおかしいとか言えるかもしれんけど、まぁ、そこまでうるそ言わんといてやって。もともとめちゃめちゃナイーブな男やさかい、あいつ。そやけど、浜本だけのことやないやろ思う。人類学者のナイーブな目的ちゅうたら、一言で言うたら、やっぱり対象の社会なり文化なりを知ったろっちゅうことやろ思う。で、フィールドワークに行く。そこで人々のいろんな実践やら、そこで起こるいろんな出来事やらを目にするわな。さて、人類学者にとって、こいつらみんな、この目的にとって、ものすご貴重な手がかりになるわけや。つまりや、それらを、ドゥルマ社会なりドゥルマ文化なりについて何か教えてくれるもん、ドゥルマ社会について何か「語ってくれとる」もんとして、とりあつかうわけや。人々の実践ももろもろの出来事も、彼にとってはみんなみんなドゥルマ社会について何かを語るもんなんや。

そやけど忘れたらあかんで。それはそれらの実践や出来事の、「人類学者にとっての」あり方に過ぎひんのや、っちゅうこっちゃ。それを、それら実践や出来事の本来のあり方やとか思てしもたとき、解釈人類学的錯視が生じる。人類学者にとっての現象のあらわれを、それ本来のあり方やちゅうて正当化してしまうわけや。それだけやないで、そうした実践や出来事の意味を人類学者が勝手に読み解いてしまうことまで、正当化してしまうんや。テキストは多様な読みに開かれとう、とか言うてな。ほんま勝手なもんや。現地の人らの「肩越しに」とか言うたら、まるで現地の人らの解釈をまず尊重しとるみたいやけど、実際のところ人類学者の解釈と独立した形で、現地の人らの解釈はこうやとか示せるわけでもないから、これかて、人々の実践は当の現地の人らにとっても実は解釈されるべきテキストなんやっちゅうことにして、実践をテキストとして扱ったろっちゅう人類学者の選択を正当化しよ思てるだけなんやないかて、勘繰りとうなってしまうわ。

え?お前、弁護したるちゅうて、ちっとも弁護になっとらへんやんかて?まぁ、そないに急かさんといて。悪いとこは悪いて押さえた上で、再評価しよ、思てるんやから。

たしかに解釈学的アプローチは、こないな風に実践ちゅうもんの性格をなんやちょっと勘違いしとるところはある。そやけど、その一方で実践が同時に「社会的」でもあることに、必然的にともなう一つの特徴にわしらの目を向けてくれたちゅうことも確かなんや。解釈人類学が考えてるような意味とはちょっと違うけど、たしかに実践には、意味を読み取られるべきもんちゅう意味での「テキスト」に似た側面があるんや。それは実践が、ほとんどつねにある社会的空間(わしの別の言い方やと「言説空間」ちゅうことになるけど、まぁ、あんまりこだわらへんとくわな)を前提にし、その中で行われる社会的実践やからや。実践はいつもこうした社会的空間に投げ出されとる。それ、どういうこっちゃて言うと、実践はこの空間でつねに他者による「読み」に開かれしもとるちゅうこっちゃ。そしてたいていの実践者は、そのことを踏まえとる。つまり自分のすることが他者の読みに開かれていて、しかじかの形で読みとられるちゅう可能性があるっちゅうことを踏まえて行動しとるちゅうこっちゃ。ただしそこで読みとられるもんは、解釈学的アプローチの多くがそうやったみたいな、社会や文化についてのメッセージやらメタメッセ−ジやらやないけどな。そこでは行為者相互の関係性や、行為と状況との関係性こそが、読みとられるべきもんやっちゅうことになる。

いくら解釈学的アプローチが気に入らんちゅて、このこと忘れて、行為のテキスト性を無視してしもたら、ブルデュみたいな逆に極端な立場になってしまうかもしれへんな。

ブルデュの実践理論な、あのハビトゥスがどうたらこうたら言うやっちゃ、あれ読んどると、なんやブルデュが描く行為主体て、たしかに他者と戦略的に交渉しとるみたいに見えて、実は深い意味で他者とのコミュニケーションを欠いとるような気がするんや。ちゅうんは実践は、客観的な構造のモデルや規則に従うことなしに、個々の行為者が内蔵しとる傾向性ハビトゥスに導かれとるっちゅうんやから。もし実践がなんらかの構造モデルに従ってるみたいに見えるとしても、実はそれはこのハビトゥスが客観的な構造にあんじょう適合するように形成されとうおかげなんやて。それぞれの行為者の行為は、単に自分が内蔵しとるハビトゥスに導かれて振舞っとうだけやねんけど、自然と互いにシンクロしてあたかも構造主義者が構造っちゅうて取り出してみせるようなモデルに従って出来事が生成しとるように見えるちゅう仕組みになっとるんやて。ブルデュはん自身が言及しとるけど、まるでライプニッツのモナドやんか。あ、ライプニッツはな、こんな喩え話しとる。二台の時計が同時に同じ刻を打つ。これは何でやっちゅうわけや。(1)二台の時計が互いに連絡取り合っとるからか?(2)誰かがおって、同じ時刻に鳴らせる作業しとるんか?それとも(3)二台の時計が最初に正確に巧妙に製作されているおかげで、後はそれぞれの時計が勝手に動いとっても、ちゃんと協調した振る舞い(同じ時刻に刻を打つこと)するようになっとるっちゅうんか?てな。ライプニッツの答えは当然3番目や。でブルデュにとってのハビトゥスの概念も、これなんや。本人が言うとるんやから(Bourdieu 1977:80)間違いないわ。そやけど社会的実践のモデルとして、これちょっとおかしいんとちゃうか?コミュニケーションはまるでどうでもええ、ちゅうてるみたいやんか。

解釈学的アプローチの観照的っちゅうか観望的っちゅうかスタンスは、そら、ちょっといただけんとしても、そやから言うて、これはどうみても行き過ぎやわな。社会的空間に投げ出された行為が、他者による読みに開かれてしもとる、そんで当の行為するもんもその事実を踏まえとる、つまり自分の行為のテキスト性に多かれ少なかれ気付いとる、ここらへんのことは社会的実践をきちんと理解しよ思たら、ちゃんと押さえとかんとあかんことやと思う。この社会的空間で交錯する「解釈」プロセスのこと思たら、人類学者の解釈なんてもんは二の次、三の次の話や。「人々の解釈を解釈する」とか言うスローガンは、自分の解釈行為を正当化するもんとしてやのうて、もっと真剣にかかげてもらいたいもんや。ほんなら肝心の「人々の解釈」っちゅうもんがそんな都合よう人類学者の前にポンと与えられとるもんやないっちゅうことがすぐわかるはずや。それどころか「人々の」とか「バリ人の」とか、そんな能天気な修飾語、気安う使う気になんかなれへんかったはずや。

社会的空間における解釈の交錯は、そのムラが特徴やからな。不均衡、不均質、不一致がその特徴や。単にそれぞれの行為者の解釈の内容が、人それぞれで違ごとるっちゅうことばかりやない。他者の行為を「読む」ちゅうても、誰もが同じように真剣に同じ程度の慎重さで読むっちゅう訳やないし、自分の行為のテキスト性を自覚しとるっちゅうても、誰でもが同じように他人にどないに読まれるかを真剣に計量しとるわけやあらへんちゅうことや。まぁ、古谷はんが言うてはることやけど、例えば、下っ端のもんは力のある人らの顔色っちゅうか行為に含まれているメッセージを、真剣に読まなあかん。正しく読みそこのうて、ひどい目に会うんは自分らやからな。そやけど上の人らは、下っ端のもんの行為のメッセージを少々読みそこのうても、たいがい痛うも痒うもないわな。上のもんのメッセージにもしダブルバインドが組み込まれとったら、それでほんまに困ってしまうんは下っ端のもんだけや。対等なもんどうしやったら、それ冗談にしてしまえることかもしれへんねやからな。

逆に、自分の行為のテキスト性についても、上のもんは下っ端のもんにどう読まれても、やっぱりたいがい痛うも痒うもないさかいに、おおざっぱに済ませるんやけど、下っ端のもんは自分の振る舞いが上のもんにどう読まれるかは大事や。生活かかっとる。正しく読まれてしもたら困ることもあるし、正しく読んでもらえへんかったら困ることもある。上のもん、下っ端のもんとか、めちゃくちゃ大雑把な話やけど、言説空間のなかでの力関係っちゅうんは、だいたいこんなやり方で可視化でけるもんやと思もて間違いないやろな。

まぁ、そんなわけで解釈学的アプローチはもうイケてへんとか言うて、社会的実践における解釈的な側面を無視してしもたらあかんのやってことや。観望的な解釈人類学なんか止めて、力関係とか主題化せなならんとか言うても、やっぱり言説空間の中での人々の錯綜する読みとか、コミュニケーションの回路のあり方とか度外視して、そんなもん主題化でけるもんやないんや。まぁ、あんまり解釈学的アプローチの弁護にはなってへんかったけど、そんなとこや。

って、なんやいきなり強引に終わらせるてか?そや、今日はなんやいつもより長なってしもたし、酔いもなんや醒めてしもたわ。今日は失敗や。ほなな。

引用

Bourdieu,P. 1977, Outline of a Theory of Practice, Cambridge: Cambridge University Press

小泉潤二 1984 「解釈人類学」綾部恒男編『文化人類学15の理論』中央公論

C・ギアーツ 1987『文化の解釈学II』岩波書店

古谷嘉章 2000(頃)「お言葉」(どこかに書いてはるやろけど、ちょっと探すのは堪忍や。この話は古谷はんから何度も聞かせてもろたことや。)


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp