逆説の濫用:タウシグの defacement における秘密のパラドクス



ブログの方になぐり書いたものだが、ブログだとすぐ流れて自分でも発掘が困難になることがわかったので、覚書としてここに安置しておくことにする。あまり今後発展しそうな議論ではないが。


タウシグにカラんでみる
Taussig 1999, Defacement: Public secrecy and the labor of the Negative, Stanford, California: Stanford University Press

8月末に再読したタウシグの Defacement: Public secrecy and the labor of the negative 。一応批判をきちんと文章化しておこうかとも思ったのだが、やはりそこまでするほどのものでもなさそうなので、簡単な覚書としてここに残しておくことにしよう。

やはり対義結合(オクシモロン)や逆説(パラドキシスム)といったレトリックの多用は危険であるということ。どちらもなかなか知的に印象的な主張を形作ることができ、ジジェクやタウシグを始めとして最近多用する人が増えている。そういう私もときどき気がついたら知らずに使っていることがある。通念をパタンとひっくり返して見せて、それでいて何か新しい真実に対する洞察を得たような気にさせるこの種のレトリックは、実際に新しい洞察につながることもあるのでバカにできない。だがその万能パワーは同時にすごくお手軽なので、言葉遊びのレベルでおぼれてしまって、深い洞察を手に入れ損ねることにも通じうる。

万能パワーというのは、ほとんどの対義結合や逆説は、出来不出来の差はあるけれど、それなりにつねに有効だからだ。たとえば、『人が誰かをバカにしたり、けなしたりするときには、実は彼に一目置いて恐れているのだ』みたいなことを言ってみよう。典型的な逆説であるが、ああそうかもしれないと思わせるところもある。実際にはもちろんそんなのは本当なわけがない。私は自分のことだからよくわかるのだが、もしみんなからバカにされたりけなされたりしているとすれば、普通それは事実文字通り軽んじられ嫌われているだけの話である。逆説の真理っぽさは、多くは所詮言葉のあやにすぎない。どんなに一般的に正しい(通念)と考えられる命題でも、その裏返しを真にするようなコンテクストには事欠かないので、逆説はレトリックとして成立する。しかしそれを事実と思ったりしてはいけない。

というわけで議論の重心に、こうした逆説がしっかり腰をすえていたりすると、その議論は疑ってかかる価値が十分にある。タウシグのこの本がまさにそれだ。

 

*1*

                  

この本の中心を占めている洞察は「神秘=秘密を暴くという行為こそが、逆に神秘=秘密のリアリティを強化する」というもので、まさにずばり逆説である。常に繰り返し、ちらちらと暴いて見せられる秘密とは、公然の秘密 public secrecy に他ならないということになるが、この概念自体、「誰もが知っている秘密」という対義結合(オクシモロン)である。逆説と対義結合が議論の核心にある。なぜなら通念では、秘密とは暴かれることによって消滅するものであり、本来、人が知らないものが秘密であるはずなのだから。

もちろんレトリックが議論の核心に位置していることが、議論をだめにするわけではない。公然の秘密---つまり誰もがそれを知っているのだが、知っていると言うことを口にすることが禁じられているような---は、人々が本当にそれを知らないのか、知らないふりをしているだけなのか、知らないふりをしているというふりをして実は本当に知らないのか等々が、誰にとっても相互に根本的に決定不能で、フィクションと真実をより分けることが困難であるような社会空間を出現させる。そこは権力が作動する空間となる。そこでは秘密は、まさに不在の現前(これもまたまた対義結合だ)として、人々を拘束する。まさにその通りなのかもしれない。そして秘密が公然の秘密になるためには、それはさりげなく暴かれ続ける必要があり、その暴きたてを通じて、人がその秘密に共犯関係をもたされてしまうといった回路が作動しているのだろう。

それはジジェクが、同じく逆説を武器に鮮やかに描き出した状況を思い起こさせる。政府の広報担当官が、内閣に腐敗が広がっているという非難を事実無根であると宣言してみせる。広報担当官のいうことを信ずる者はいない。担当官自身、誰も自分のいうことを信じていないと知っている。そのことを彼は知っていると、わたしたちも知っている。そしてわたしたちが知っているということを、彼も知っている。そしてジジェクによると、その間、腐敗はどんどん進行してゆくのだ。一体なぜこんなことになるのだろう。まさに暴かれた秘密、誰もが知っていること、が人をその秘密につなぎとめ続けているのである。

しかしこうした事態を、秘密についての対義結合と逆説で理解した気になってしまって本当によいのだろうか。理解の鍵を逆説にゆだねることは、結局、一つの謎=問いを、さらにいっそう謎めいた理解---逆説とは字義通りには理解不可能なものなのだから---に置き換えているだけのことなのだから。

*2*

さて私は、タウシグのこの秘密についての逆説的な洞察が、しばしば単なる言葉のあやとの戯れに堕し、実際の民族誌的問いに対する深い洞察を妨げるものになってしまっているケースを問題にしたい。秘密をめぐる逆説と対義結合に有頂天になってしまうことは、「秘密」という概念そのものに対する分析を逆におろそかにしてしまう。タウシグにおいてもそれが起こっている。そしてその結果生じる混乱が、ある特定の民族誌的問題の解決をまったく勘違いの方向に向けてしまっている。

本書の中心を占め、もっとも多くのページを割いて論じられているのは、人類学ではおなじみのテーマの一つ、秘密結社と秘密をめぐるイニシエーションについてである。たとえばすべての成人男子からなる結社があり、そのメンバーは秘密を共有しており、それを未加入の子供や、女性たちに明かすことは許されない。彼らの秘密のロッジは女子供には禁制で、そこで何が起こっているのかを知ろうとしたり、覗いたりしたりしてはならない。万一その禁を犯したり、結社の秘密を知ってしまった女性は死の制裁を受ける、等々。これらの成人男子たちの結社の活動は、森のあらぶる精霊、あるいは祖先とかを祭ることだったりで、その際にそれらの精霊や祖先の仮面をかぶって踊る。女たちには、それは精霊そのもの、あるいは祖先そのものであると信じさせている。またロッジや森の中でブルローラーなどで恐ろしい音をたて、女たちにはそれは精霊の声であると信じさせている。その声の正体を知ったり、それをみてしまったりしたものは、以下同様。まあ、そういうわけで秘密結社なのである。

さてイニシエーションにおいて新たに加入する子供は、女たちのもとから精霊=実は仮面をかぶった男たちによってさらわれたりしてロッジに連れてこられる。いろいろそこで訓練を受けたり受けなかったりして、クライマックスは、再び精霊の登場である。子供たちはめちゃめちゃびびらされ、精霊からてひどい仕打ちを受け、恐怖の頂点で、たとえば「お前の前にいる精霊の仮面に触ってみよ。それを取ってみよ」とか言われ、こわごわ相手の仮面に手をかけると、その下によく見知った親族男性の顔が現れる。実は精霊だとお前が思っていたのは、精霊じゃなくお前の親族の男だったんだよ、というわけだ。あるいは子供は、恐ろしい精霊の声を立てる楽器を示される。お前が恐ろしい精霊の声だと思っていたものは、実はこの楽器で男たちが立てていた音だったんだよ。そしてなんと、結局これらこそが結社の「秘密」なるものの正体だというのだ。

さて、どういうことなのだろう。秘密結社が大事にしている秘密とは、結局女たちをだましているだましのタネのことだった。結社に入るということはそのタネを明かされることである。しかもこの肝心のタネなのだが、本当に女たちがそれを知らないのかどうかもいささか怪しい。女たちは実は、そんな子供だましのようなトリックにはまるでだまされておらず、精霊の正体が仮面をかぶった男たちだということは百も承知で、でも知らないふりをし続けているだけなのかもしれない(おそらくそうだろうが、公然の秘密がそうであるように、そのことを女たちは認めないので、決定不能の状態が出現することになる。女たちは精霊の正体が男たちであり、精霊の声が男たちが立てている音であることを知っていながら、知らないふりをする。そして男たちは、そのことを知っていながら、自分たちが立てている音を女たちが精霊の声だと信じている、仮面をかぶった自分たちを女たちが精霊だと信じている、というふりをする。人々は「秘密」を器用にあしらっている気でいるが、まさにそうすることにおいて「秘密」につなぎとめられ、それに踊らされているのである。

そしてなによりも、結社に加入することが、精霊だと思っていたのは男たちの変装だと明かされることであるというのなら、このネタばらしによって、結社の成員がおこなっている精霊たちに対する崇拝自体が空疎なものになってしまいはしないのだろうか。にもかかわらず結社の加入者たちは、このことで精霊に対する信仰が損なわれたりはしない。それどころかこのネタばらしをされることを通して、子供たちは精霊を崇拝する他の男たちの仲間入りを果たすのである。このようにみると、秘密結社の事例は、まさにタウシグの秘密の逆説と対義結合の例としてうってつけであることがわかる。秘密は(通念では)暴かれることによって消えてしまうはずなのに、暴かれることによってますますリアリティを獲得する。秘密は、人が知らないから秘密であるはずなのに(通念)、誰もが知っていて、ただそれを口にしないことによって、ますます強力な秘密になる。

*3*

タウシグの説明が魅力的でないわけではない。しかしもう少し慎重に検討してみると、それは秘密についての考察としては、非常に中途半端で、秘密結社のイニシエーションの説明としてはかなり変な方向を向いているのだということがわかる。

そもそも秘密とは何だろうか。タウシグはいちいちそれを定義することには手を煩わされない。それが何かわかりきったものであるかのように議論を進める。しかし、その議論というのが、秘密がいかに謎めいたものであるのかを繰り返し強調するというのであれば、出発点でその自明性を前提とするのはほとんど詐欺のようなものではないだろうか。

単に知られていないことが秘密であるわけではない。私の心臓の正確な形状は、私本人も含め誰にも未だ知られていないが、秘密であるわけではない。恐竜の滅亡の本当の理由は知られていないが、別にそれは秘密ではない。また知りたくても知りえないことが秘密であると言うわけでもない。来年の今日の天気は、知りたくても知りようがないが、誰もそれは今のところ秘密である、などと言ったりしない。

また知っている人と知らない人がいなければ、なにかはそもそも秘密にはなりえない。すべての人が知らないことがあったとしても、そもそもそれを秘密として語る行為そのものが不可能だろう。誰もそれ自体をしらないのだから。また全員が知っていると想定されているものがあるとすれば、それも秘密にするわけにはいかない。地球上に空気が存在することを明日から秘密にしようと決めても無駄である。そのことを知らない、知りえない人の存在をまず前提としない限り、秘密という概念は成り立たない。しかし、同時に単にある事柄について、知っている人と知らない人がそれぞれいるという事実だけでは、それは秘密にはならない。フェルマーの大定理については、知っている人も知らない人もいるが、どちらの人にとってもそれは秘密でもなんでもない。

要するに人々の知識にばらつきがあることを前提として、どんなものでも秘密にしなければ秘密にはならないし、秘密にしたものは、なんであれ秘密になる。秘密にするとは、なんらかの情報の転送を特定の人に対してブロックするということである。つまり、秘密とは、そもそもなんらかのモノを指す概念ではなくて、そのモノの取り扱い方についての概念なのである。メッセージそのものの属性ではなくて、そのメッセージをどうコミュニケートするか、そのやり方を指す概念なのだ。明確な禁止命令がその本質である。私が偏平足であることはほとんどの人が知らない。私がそれを話さないからだが、それは単に別にわざわざ話すようなことではないからだ。それを「よくも今まで隠してやがったな」とか言われると心外である。別にそれは秘密でもなんでもないし、わざと隠していたわけではない、つまり明確な転送禁止はない。たまたま誰にも転送しなかったというのと、禁じられているからしなかったというのとでは大違いである。

したがって秘密とは秘密とされたものそのものの属性ではない。何かは、それが秘密であるから転送を制限されるのではなく、転送を制限されるから、それは秘密なのである。

あるモノが秘密であると語ることは、そのモノそのものについて何かを語ることではない。私が偏平足であると語ることは、私の足について何かを叙述することである。しかし私の扁平足が秘密であると語ることは、もはや私の足について、あるいはその形状について何かを語ることではない。それは私の足について何かを語るメッセージ「私は偏平足である」について、何かを語ることなのである。つまりそれはメッセージについてのメッセージ、言い換えれば「メッセージ『私は偏平足である』は秘密である」というメタメッセージなのである。ベイトソンの比喩で述べるなら、それはメッセージを取り囲むフレームについての記述である。

以上を図で示すと次のような具合になる。まあ小学生でもわかる当たり前の話である。

秘密という言葉の日常的な用い方が、すべてこの図から予測できることがわかるだろう。秘密という言葉は、このフレームが内蔵する禁止によってどちら側に立たされるかによって、その意味内容を変えるだろう。もし私が転送が禁じられている者たちに属しているなら、私にとって秘密とは、そのメッセージの内容を知ることが阻まれているところのものである。誰か、そのメッセージを知っている者を買収してその内容を知ってしまえば、私にとってそのメッセージは秘密ではなくなる。私は、そのメッセージを誰かに転送することを禁じる禁止には従わないので、それはいかなる意味でももはや秘密ではない。一方、秘密フレームのメッセージを転送しあう者たちにとっては、メッセージの内容を知っていることはあたりまえのことで、彼らにとってはメッセージを知らないことがそれを秘密にしているわけではない。その転送禁止規則に従うことがそれを秘密にしているのである。この場合、彼が買収などに負けて、そのメッセージを誰か禁止された人に伝えてしまえば、彼はそれを秘密じゃなくしてしまったということになる。また彼は、これは秘密だから誰にもしゃべらないで、と言った形で、そのメッセージを新しい誰かにばらすこともありうる。これはたいてい危険な行為であるが、ばらした相手が転送禁止規則に従ってくれるならば、その相手は彼にとって秘密フレームメッセージの共有者、秘密の共犯者となる。ばらされた相手にとっても、その内容を知ったことでそれが秘密でなくなるわけではない。転送禁止規則に従うことで、彼にとってそれは、そのメッセージの内容を知った後でも秘密であり続ける。

さて、ここで挙げた使い分けは、すべて秘密をめぐる社会的せめぎあいを想定した区別になっている。誰かが何かを秘密にしている、つまり他の特定の人々に対して隠しているとしても、隠されている方が何かが隠されていることに気づく可能性がない場合、秘密は隠している方にとっては存在するが、社会的には存在していないと言えるかもしれない。社会的現実としての秘密とは、何かが隠され、しかもその隠されているという事実が提示されている場合に存在する。隠蔽と顕示、これが社会的現実としての秘密という事実を構成する。秘密をめぐる上で述べたようなせめぎあいが生じるのは、こうした状況においてであるが、まさにこのことが秘密をとりわけ逆説や対義結合になじみやすいものにする。社会的にリアリティをもつためには、それは隠蔽されていると同時に示されていなければならない、と言った具合に。しかしこれは真正の対義結合ではない。論理階型の違いに注目すれば、ここにはなんのオクシモロンもパラドクスも存在しない。フレームの中のメッセージは隠蔽されねばならないが、フレームそのものは示されていなければならないというだけのことであり、隠蔽と顕示はここではまったく矛盾していない。

なにをくどくどとと、ウンザリされた方も多いだろう。なぜ、こんな基本を繰り返したかと言うと、まさにタウシグが首尾一貫して、メッセージとメタメッセージという秘密概念の二つのレベルを区別することを怠り、そこから派生する秘密という言葉の立場による使い分けを、終始混同する傾向にあるからである。論理階型においてメタレベルとオブジェクトレベルを混同すると逆説パラドクスが生じる。そしてタウシグはそうしたパラドクスをあたかも洞察であるかのようにもてあそぶ。それが一見、新奇な洞察に見えて、その実、禄でもない議論になってしまうのも仕方ない話である。

*4*

さて、秘密結社のイニシエーションをめぐるタウシグの分析を検討してみよう。彼がここで中心にすえている逆説は、イニシエーションにおける加入者への秘密の開示に関係している。秘密は開示され、暴かれることによって「消滅」し「破壊」されるはずなのに、逆により強固なリアリティをもつという不思議である。本書の最初の部分で、タウシグはいわゆる「未開人」の不可視なものへのこだわりを、彼らにとってのものごとの多層性に関連付け、そしてそこでは見かけを暴(unmask)こうとすることが、逆に神秘を累加させるのだと述べ、神秘を生み出すというこの暴き(unmasking)のもつ効果をこそ明らかにしたいと宣言しているが(p.56)、秘密結社の事例はタウシグが執心するこの逆説についての、もっとも詳しく展開された具体例の役割を果たしているのである。

さて結社へのイニシエーションで加入者は、たとえば、自分たちが本物の精霊だと信じさせられていたものが実は男たちが化けていたものだったのだ、トリックだったのだと明かされるわけだ。そしてこのことが結社の秘密の正体であり、以後、これを絶対に女子供にばらしちゃだめだぞと言われるわけである。こんな風に精霊だと思っていたものが男たちの扮装であり、精霊の声と思っていたものが楽器の音色だと種明かしされたにもかかわらず、男たちの精霊に対する信仰、精霊の実在性はまったく揺るがず、むしろ神秘の度合いを深めるとは、いったいどういうことか、とタウシグは驚いてみせる。暴くことが秘密=神秘を破壊せずに、逆に強めてしまうという逆説を我々はみていることになるのだと。

しかし、この段階にすでにいくつもの概念的混乱が入り込んでいる。まず第一に、秘密という概念にそなわる二つの論理階型の違いの混同。前節でも述べたように、秘密フレームの禁止圏外にいる者にとって、秘密はばらしてもらうことで秘密ではなくなる。しかし、この「秘密の消失」「破壊」はメタメッセージのレベル、あるいはフレームについての話である。私の秘密「浜本は偏平足である」は、人に知られてしまうとたしかに「秘密」ではなくなる。しかしここで消失し、破壊されたのはメタメッセージ「『浜本は偏平足である』は秘密である」だけである。いくらばらされたからといって、当のメッセージそのもの「浜本は偏平足である」が消失したり破壊されたりするわけがない。もし秘密をばらすことによって「偏平足である」という事実自体が消失してくれると言うのなら、私は大喜びでばらしまくりたいくらいだ。タウシグが驚いて見せていることの一つは、秘密フレームが壊れても(つまりそれが秘密でなくなっても)、メッセージは壊れないぜという、別にまるで驚く必要のない当たり前の事実にすぎず、それを逆説に見せかけているのは、彼が単に二つの論理階型を混同しているからにすぎない。

おまけにこの場合には秘密フレームについてすら消失したとか破壊されたとはいえない。なぜなら、「『精霊って実は男の扮装だよ』は秘密である」は、ネタ晴らしをされた加入後の少年にとっても、そのまま成り立つからである。彼はいまや、フレーム付けられたメッセージ『精霊って...』の転送禁止を守る側にまわったのであり、そのメッセージの内容を知ったことがそれを彼にとって秘密でなくしてしまうわけではない。彼にとっては、それは秘密のままであり、メタメッセージは消失も破壊もしていない。タウシグのいう逆説は、ここでは二重の意味で生じていないのである。

しかも、ここでタウシグが驚いて見せているのは、かならずしも秘密のオブジェクトレベルのメッセージ『お前たちが精霊だと思っていたのは実は男たちの扮装だ』が、秘密の開示によって秘密であることをやめないという話ですらない。彼は、実はここで話をまったく別の平面にずらしてしまう。精霊が男たちの扮装であること、トリックであることがばらされても、「精霊」そのものの存在が疑問に付されないこと、精霊のリアリティがむしろ強化されるということである。すでに、これは秘密をめぐるパラドクスとは何の関係もない問題である。しかしタウシグはこれを、「秘密は暴かれることによってよりそのリアリティを強化する」というパラドクスとして論じ続け、この秘密というものの神秘性(それを神秘化しているのは当のタウシグだ)で強引に説明して見せようという手に出る。タウシグのレトリカルな文体だけが、それにわずかながらの説得性をもたせるだろう。はっきり言って、読めば読むほど混乱して意味不明な説明であり、そもそも説明になってなどいなかったりするのである。

「私が言いたいのは、それゆえ、まさにこのリアルさ、この不在の現前の現前化(presencing of an absent-presence)こそ、仮面の精霊が実にわざとらしいインチキの、それも秘密として仮装された公然たる秘密の何枚もの層によって包み込まれたインチキの産物であることを、それが暴いて見せるときの暴き(unmasking)が成し遂げているものに他ならないということである。」(p.161)

ここでは、それがタウシグが秘密の逆説と同時に、同じ重みを持ってもてあそぶ対義結合、公然たる秘密(public secrecy 誰もが知っているがそれを口に出さない秘密)とさらに結び付けられているが、そのことは話をますます謎めかしてしまうだけである。

「ホームレスとなった秘密は、その翼を広げて地球上の多くの場所をそのホームとして見出したのである。男たちが精霊を模し(精霊のふりをし)、女たちが信念を模し(信じているふりをし)、男たちは女たちが信じているという信念を模す(男たちは女たちが自分たちのトリックを信じていると信じているふりをする)なかで。そしてすべてが、女たちが支配者であり秘密の保持者であり、男たちを欺いていた別の時代(神話的時代)の記憶の長い影の下で。この前史、女から男へと秘密がその所有者を変えたというこの前史が、なぜ秘密にとってかくも重要であるのか、そのことは永遠にただ憶測するしかないことがらだろう。いまや我々の時代において秘密が、それに疑いを持った女は誰であれ生かしておかない、あるいは無事ではすまさないというまでに男たちによって嫉妬深く守られているという事実同様に。しかしこの秘密の本当の秘密とは、何の秘密もないということそのものなのである。」(p.169 括弧内は私の意訳)

レトリックの洪水は、肝心の『謎』であったところのもの:トリックだとわかった後でもなぜ精霊の存在がリアリティをもちつづけるのか、に答えるうえでは、あまり役に立っていないようである。

*5*

男たちの精霊の扮装のトリックと、そのネタばらしが、精霊自体のリアリティをいささかもそこなわないという謎は、実際にはそれほどたいした謎ではないし、また秘密そのものとはたいして関係のない話である。

タウシグ自身が引いている民族誌の中に、実は答えはあまりにもあからさまに書かれてしまっている。それを引用しながら気づかないのは、すでに秘密の逆説にすっかり酩酊しているタウシグだけである。

138ページから139ページにかけて、タウシグは、この加入者に対する暴きの瞬間についてのグシンデの民族誌記述を引用している。加入する少年は、男が扮した精霊を本物と思って恐怖のどん底にいる。精霊は少年をさんざん痛めつける。そしてその挙句に、周りにいる長老が少年に、いまや少年の前にじっと座っているだけの精霊の仮面に触れ、それを取るようにと言う。おそるおそる少年は仮面に手を掛け、それをはずす。その下から現れるのは少年の親族の男の顔なのだが、恐怖におののく少年にはまだよくわからない。長老は少年に言う。「こいつはお前の親族だよ。本物のヤタイタ(精霊の名前)じゃない。よかったな。本物のヤタイタだったらこんなもんじゃすまなかっただろうに。本物のヤタイタに心しろよ。 etc...」

このくだりに、言うところの謎の答えはあっさりと出てしまっている。わかりやすいように、こんな例で考えてみたらどうだろう。お化けが存在すると思い込まされている子供がいる。その子供をお化け屋敷に連れて行く。本当にお化けが出るとさんざんおびえさせて。子供はそのお化け屋敷で死ぬほどの恐怖を味わうだろう。その頂点で、「いやいや、よく見てごらん。これは本物のお化けじゃない。人がお化けのふりをしていただけなんだよ。」お化け屋敷のスタッフの協力も得ての、種明かし、ネタばらしである。「安心しな。本物のお化けじゃなかったんだよ。人が化けてただけだったんだよ。よかったねー。」さて、これは子供の心からお化けの存在を消し去るだろうか。お化けなんか実はいないのだと子供に思わせるだろうか。もちろんそんなことはない。子供はもちろんこの種明かしでほっと一安心するだろう。「あー、本当のお化けじゃなくてよかった」でもそれは、「本当の」お化けの恐ろしさを逆に強化するのである。<もし、本当のお化けだったとしたら、どんなにおそろしいことになっただろう。人がお化けのふりをしていただけでこれほどに恐ろしかったのだから。ああ、本物じゃなくてよかった>ということなのである。

人がお化けのふりをしていただけだと明かされることは、本物のお化けの存在を否定することにはまったくならないし、逆に、今味わったばかりの恐怖によって、本物のお化けの恐ろしさをまさに想像を絶したものに高める。

我々の社会では、お化けや霊はその存在自体が社会的に疑問視されるような存在に過ぎない。そこでも人はお化け屋敷で、お化けの恐怖を味わう。人がやってるのだとわかっていても、それなりの恐怖を味わう。本物のお化けだったら、こんなものじゃあすまなかっただろうにと、ふと考える。ただ幸いなことに、我々の社会は、本物のお化けなるものがはたしているかどうか自体が、それほど大きな可能性としては考えられていない社会である。

しかし、グシンデが報告する社会では、精霊の存在は誰もが当然と考える事柄に属している。そこでのイニシエーションというお化け屋敷経験は、それが種明かしされることによって、ますます本物の精霊の恐ろしさを際立たせることになるのである。「本物でなくてよかった。もし本物だったら....」この仕組みそのものは、このトリックが結社の秘密とされていることとはあまり関係ない。もちろん、その効果は、最初から男が扮しているとばればれの遊園地のお化け屋敷みたいなイニシエーションだと、かなり落ちてしまうとは考えてよい。秘密はその意味では、イニシエーションにおけるネタバレのリアリティ効果に貢献しているとは言える。

どうだろうか。タウシグのいう謎そのものは、もしかすると、私が今おこなった説明である程度晴らせる謎だったのではないだろうか。それは一冊の本をささげるほどの謎ではなかったことは確かである。もちろん私はこれが、この民族誌的問題に対する唯一の答えだというつもりはない。患部から病因を吸い出すと称して、口の中に前もって含んでおいて血まみれの綿を吐き出してみせるといった類の「医療」行為にふくまれるトリックと共通する問題系のなかで、それは別の側面を見せるだろうし、いわゆる模倣呪術一般につながる問題とも接しているだろう。しかし、結社へのイニシエーションに際するネタばれだけに関して言えば、それが逆説によってしか説明できないような困難な問題であるとはいえないのである。

*6*

私はタウシグのこの著作の価値を、けっして低くは見ていない。非常に刺激的な考察にとんだ著作である。しかしその中心部分を形作っている議論、秘密結社のイニシエーションについての考察は、贔屓目に見てもお粗末と言うしかない。初めて、タウシグのこの著作を読んだときには、私は個々の議論についてもよくわからないところが多く、また全編を通じて繰り広げられる彼のレトリックに完全に幻惑されて、何かすごく深遠な洞察に接しているような気分になった。先々週、二度目に読んだことによって、この深遠な洞察についての賞賛は、ずいぶん引っ込めざるをえないと感じた。それどころか、この本の中心を占める第三部は読めば読むほど、タウシグが真顔で駄洒落を飛ばしているだけの議論に見えてきて、笑いをこらえるのに苦労することになった。

逆説や対義結合は、ときに通念を完全にひっくり返えした新たな洞察に導く協力な武器となる。しかしそれに耽りすぎると足元をすくわれる。
私もレトリックの多用で恥をかかないように、ますます心してかかりたいと思う。

.....というか、めちゃめちゃ長くなってしまったよ。それに、書き始めたときのプランとはなんとなく違う風な終わり方をしてしまってるし、いろいろ言い足りないし。でももうそろそろケリをつけてしまいたい。まあ、わざわざ最後まで読む人もいないだろうけど、このままここに置いておくことにする。いろいろ切羽詰って追い立てられている状況だと言うのに3時間以上もこんなものを書いてブログの更新についやすとは、自分ながらバカ野郎である。