「文化」という言葉で語られるいくつかのことがら

文化人類学の入門書の類を読むと、「文化」についての説明がきまって、「文化」という概念を定義するのは難しいだの、「文化」の定義はさまざまであるだのの言い訳めいた話から始まっているのに、たいがいげんなりしている人も多いんじゃないだろうか。まあ、入門書をげんなりするほど何冊も読むなんて物好きは、教師くらいのものだろうけど。で、最大公約数をとったんだか、お気に入りを組み合わせたんだか知らないが、最後にもっともらしく著者自身の定義が書かれていたりした日には、そのあまりにこてこての展開にツッコミを入れる気力すら失せてしまうに違いない。だってそうじゃないだろうか。すでに途方に暮れるくらい、ばらばらでかけ離れた使い方をされてしまっている言葉に、いまさら定義を与えてどうしようっていうんだ?あんたが定義したって、だれもそのとおりになんて使ってくれたりしないって。

それとも何か?「文化」という言葉でばらばらなのは、幸いにしてその定義だけであって、「文化」という名で呼ばれるべき何かはまぎれもなくあると?何か共通のリファラントのようなものが?で、正しい定義さえ与えればそれを固定できると?おめでたいな。最近人類学内部でよく聞かれる「文化について語る権利は誰にあるか?!」などというときの「文化」と、同じく人類学者が言う、ほんとだかなんだか知らないが「人は文化というフィルターを通して物事を経験する」などというときの「文化」が同じものをさしているなどと考える人、手を挙げてください。あほです。あなたは、自分の経験をプロセスしているフィルターみたいなものが、もしあったとして、それについて語れますか?語る権利を主張できますか?当人すら自覚できないそんな「フィルター」みたいなものについては、語る権利も糞もない。そもそも誰もそんなものについてまともに語れる人はいないのだから。実際、文化を語る権利について語る人が使っている「文化」という言葉は、けっしてこのようなフィルターめいたものを指してはいない。同じ「文化」という言葉を使って、それぞれ全然別の問題について語っているわけ。

もし本当に使い方がばらばらで、「文化」という言葉によって指されているものがその都度違っているのだとすれば、大事なのはもはや言葉を正しく定義したりすることではなく、その異なる使い方をきちんと区別して、それぞれの場合にその言葉によって、どのような現象のどのような側面が問題になっているのかを明確にすることだ。こんな状況で、「私は文化を研究します」なんて言うやつには、こう問いかけるしかない。で、いったい何を研究すれば、あんたの言うところの「文化」を研究していることになるのか、と。

えーと、随分回りくどい言い訳みたいだけど、そんなわけで私が昨日の講義でお話したのは、文化をどう定義するかということではなくして、文化という言葉のさまざまな使い方がそれぞれ提案している、研究主題、問題系がいかにまちまちであるか、そしてそのどれが面白そうか、ということだったわけで、....皆さん、そのあたり若干誤解があったみたいだけど、どうかそこんところ、よろしくお含みおきください。

さて、講義で言ったことを、ここでもう一度繰り返すってのも芸のない話だけど、要するにこういうことだ。私自身は、もう「文化」という言葉で自分の関心を述べたくないと。「文化」を記述するだとか、「文化」の仕組みを解明するだとか言っても、具体的に何を記述しようとしているのか、何を解明しようとしているのか、それだけじゃわからないってんだから、自分が本当になにがやりたいのかわかって欲しいんだったら、もうこの言葉は使うなと。めんどくさい相手に、適当におざなりな応答をする場合には便利だけどな。

講義では「文化」という言葉で、みんな(研究者含む)が何について語ってきたかを大雑把に整理した(くどいようだが、文化の多様な定義を挙げたってことじゃないぞ)。そのわりには、入門書の類の「文化」についての解説と似たようなもんだったって?ほっといてほしい。

まず文化包丁とか、文化人とか、文化事業、文化的暮らしとかについては、あえて詳しく触れる必要はないと思う。まあ、お上品、高尚、洗練、なんであれプラスに評価された活動とか品物とか、要するに「文化」の薫りがただよってしまったりしている類のものだ。ここで文化を研究するということは、評価と選別とランク付けについて研究する--そうした判断がどのようにして成立しているのか、誰の判断なのか、それが人々の実践にどう影響しているのかとか--ということかもしれない。

いわゆるカルチュラル・スタディーズがその研究対象としている文化は、芸術作品その他の知的生産から、ファッションやら広告やらのありとあらゆる記号的な産出行為を含んでいて、それを文化生産なんて呼んでいるけれど、結局、上の意味での文化を希釈して拡張しているだけじゃないだろうか。こんな風に薄め広げてしまったら、そもそもこの意味で「文化生産」じゃないような産出行為がはたしてあるんだろうかかと尋ねたくなってしまう。結局、人々が生み出すありとあらゆることを研究しますといっているみたいなもんで、わざわざそれを「文化」って呼んでもたいして--それ自体がファッショナブルな感じだという以外には--たいして意味ないんじゃないか。

こうした「文化」の使い方とはちょっと違う使い方として、また「履物を脱いで家に上がるのは日本の文化だ」といった言い方もある。靴を脱いで玄関にあがる私の優美な仕草が無形文化財に指定されるという可能性があまりないことからも、これは上の話とは少しばかり別物だとわかる。ここではある種の慣習的行為が「文化」と呼ばれている。注意したいのは単なる慣習的行為ではなく、そこになんらかの共同性が含意されていることだ。鼻をほじりながらテレビを見るのが仮に私の習慣であるとしても(あくまでも喩えであって、私には本当はそんな習慣はないと強く強調しておきたいが)、私はそれを私の文化だとは呼ばないし、そもそも「私の文化」などというという言い方自体が存在しない。もっともそれが日本の文化だったりしたらすごく嫌だが。要するに、なんらかの共同性、集団的枠組みを想定し、それを特徴付けるような慣習的行為が、ここでは文化という言葉で呼ばれている。単に行為だけじゃない。例えば日本と日本人を特徴付けるにふさわしいと思われるありとあらゆる文物が、この語り口で語られうる。

さらに微妙なのは、文化についてのこの種の語り口で問題になっているのが、単なる慣習性、つまりどれだけ多くの人がどれだけ多くの頻度で繰り返しそれをやっているか、それが実際どれくらい広く見られるか、という問題のみではなかったりすることだ。ご飯と味噌汁を食べるのは日本の文化だというのは良いが、たとえどれだけ多くの人が今日そうであれ、朝食にパンとコーヒーを食べるのが日本の文化だと言うことには、あるいは昼飯にハンバーガーを食うのが日本の文化だと言うことには、ちょっと抵抗があるといったときがそれである。もちろん、そう言ってもさしつかえないという人もいるだろう。それこそが「今日の日本の文化」だとか言って。逆に、茶漬けなど滅多に食べなくても、ラモスに「日本人ならやっぱりやっぱり茶漬けだろう」と迫られたら、それにも一理あると感じる向きもいるだろう。「本来の」日本文化とか、「正しい」日本文化とかいう言い方もある。

こうした語り口においては、「誰がどういう頻度で」なんてことが--単なる事実問題として--問題になっているわけではない。ここでの「文化」という言葉は、ある種の共同性を念頭において、俺たちは本当はこんな人間なんだと自認すること、あるいはお前らは(あるいはあいつらは)こんなやつらなんだと決め付けることに関係している。自己規定や他者規定のプロセスと密接にかかわっている。「文化」は(集合的)アイデンティティのよりどころのような役割をになわされている。実際には、単なる事実問題として、どんな人たちがどんな頻度でどんな風に慣習的に振舞っているかを記述しているつもりでも、それが共同性の枠組みでなされている限り、この自己規定と決めつけが交錯する場にいやおうなく引きずりこまれてしまうのは避けられない。

文化は実はいつもハイブリッドだ、なんて訳知り顔に言う人もずいぶん増えているけれど、それは単に、こうした自己規定(それ自体多様な)と他者に対する決めつけ(同じく多様な)とが複雑に交錯する言説の場の現状に、今さらあらためて気付いたというだけの話だ。誰による自己規定でも誰による他者規定でもないかたちで、つまりなにか客観的な形で、こうした意味での文化について語れると、うすうす考えている節がある分、ちょっぴりおばかである。「文化」がハイブリッドだったりするわけではない。文化という言葉を使っての、自己規定、他者規定のあり方が複数的・不確定的だというだけだ。

最近は上で述べたような使い方での「文化」についての議論ばかりが随分目立っているみたいだ(おまけに肝心の人類学者たちがそのありさまだ。いったいなんで、誰のせいでこんなことになっちまったんだろう?)。その陰で、けっして忘れ去られたわけではないがすっかりその背後に退いて、自らと上のような使い方での「文化」との違いすら際立たせられずに、というよりは、ありえない形でそれと混同されてしまっている問題がある。忘れてもらっちゃ困るんだ。50年代、60年代の人類学--特にアメリカの文化人類学--においては文化という言葉は、上のような、共同性の枠での自己規定や他者規定の問題ではなく、もっと別の問題に理論的照明を当てる概念として用いられ始めていたということ、それがこの学問のなにやら不思議な魅力となっていたことをである。

当時の人類学者--具体的にはボアズの弟子たちだけど--は、次のような問題に気付いていた。人間の経験には一定の秩序のようなものがある。つまり人は自分の経験を構成するさまざまな出来事や事実を分類したり、それらを関係付け意味付けたりして、経験を秩序付けている。だが、その秩序付け方は、どこでも同じというわけではなさそうだ。というか、異なるかけ離れた環境で生活を営む人々のあいだでは、随分違っているようだ。異なる社会ごとに、経験を秩序付けるやり方が異なっているとすれば、この経験の秩序付けというのが何によってなされているのか、なぜそれが違ってくるのかを明らかにしたくなってくるのも当然のなりゆきだ。言うまでもなく、彼ら文化人類学者たちは、こうした違いを集団という枠で考えていた。

経験の秩序付け方が違っているらしいことは、例えば、その人々が表明する信念(正しいとされる知識)や意見、彼らが行なうさまざまな行為などを通して窺い知れる。というか、そうしたもの以外に、他人がその経験を秩序付けている仕方を直接知ったりする方法があるわけではない。読心術じゃあるまいし。さらに、単に人々が、さまざまに異なる信念や意見をもち、さまざまに異なる行為を行なっているというだけの話でもない。それぞれの社会のなかで、人々が表明する信念や意見、人々が行なうさまざまな実践は、どことなく互いに密接に関係しあっており、一つの全体を形づくっているように見える。そこになにか独特のパターンのようなものを見て取ることができる。そのパターンが、どうも社会ごとに随分違うようだというのである。

別の言い方をしよう。どんな社会でも、そこに暮らす個々人はけっして、無限にある信念や意見のレパートリー、無限にある行動の選択肢の中から、それぞれ各人自由勝手に選び出しててんでに振舞っているわけではない。かなり限られた選択がなされており、そのおかげで、社会で暮らす人々はその振る舞いが多かれ少なかれ互いにとって予測可能な範囲に落ち着くようになっているわけだし、毎日他人のとんでもない素っ頓狂な知識や意見と格闘してばかりなんて羽目に陥らないですんでいる。人々が行なうさまざまな行動や、彼らが持っている知識や意見は、多かれ少なかれ互いにチューニングしあったような格好になっている。もちろんなかには随分調子外れの人もいたりする。でもだからといってノイズの海というわけでもない。つまり、なんらかの制御原理が働いているはずだ。その働きが、どうも社会ごとに違うようだというのである。

これらの文化人類学者が「文化」という言葉によって照明を当てようとしていたのは、それぞれの社会の人々が、世界についての情報を処理し、周囲に働きかけるさいに、そこに加えられているこの制御のメカニズムの問題であった。

彼らはこの制御メカニズムを、具体的にはどのようなものとして思い描いていたのだろうか。さまざまな比喩でそれは語られていた。人は文化という「フィルター」を通して物事を経験する、とか人は文化の「色眼鏡」を通して世界を眺める、などという比喩は有名だ。わかりやすいが、おおいに問題がある比喩である。それは制御のメカニズムをあまりにもモノ化しすぎている。人々の生活がその上に成り立っている「暗黙の前提」という比喩--これは人によっては比喩としてではなく、字義どおりに捉えてしまっていることもあるが--もお馴染みだ。制御のプロセスを論理の比喩で語っている。いろいろな表明される信念や意見、行動は、まるで公理から定理が導き出されるように公理と論理演算によって制御されている。これもあまり出来の良い比喩とはいえない。これらよりもさらに酷いケースだが、制御された語りや行動が作り出しているパターンそれ自体を、それを生み出した制御のメカニズムそのものと取り違えるという、あきらかに論理階型を混同した議論も、情けない話だが、人類学ではおなじみだ。文化を「意味の体系」あるいは「記号システム」としてとらえようとする見方は、比較的最近流行ったものである。これもやや問題ありの比喩なのだが、その問題点は今ここで説明するにはちょっと厄介なので、別の機会に譲ろう。誤魔化しているわけじゃないぞ。まあ、今述べた以外にもいろいろあった。これだけいろんな比喩が繰り出されたということは、とりもなおさず、問題をずばりと捉えることがいかに難しかったかということだ。しかしこれら初期の文化人類学者の問題設定のもっとも具合の悪かった点は、この制御メカニズムを、境界づけられた集団の枠で考えてしまっていたことだろう。(このパラグラフで述べたことは、とても一言でこんな風に片付けてしまえる話じゃないので、講義の中で追って詳しく説明するつもりでいる。)

何はともあれ、それを思い描いた仕方がいかに不十分だったにせよ、彼らが人間とその社会を理解する上でとてつもなく重要な問題に着目していたということは大きな事実である。文化人類学がもっとも刺激的な運動であったそのとき、その魅力と可能性の中心にあったのが、まさにこの制御の問題としての文化という概念だった。あらためて強調するまでもないことだが、文化という言葉によって、今しばしば問題になっている自己規定+他者決め付けの語り状況とは全く別の問題に照明が当てられていたのだ。これを混同しちゃいけない。

この問題とそれに取り組むさまざまなやり方を、もういちどきちんと取り上げなおそうというのが、この一般教育「人類学」の講義のほんとうにほんとうのねらいだ。ねらいはもちろん実現できないことが多い。そんなもんだ。

ただ今回の講義の冒頭のポイントとしてはっきりさせておきたいことは、かつて「文化」という言葉によって主題化されていたこの問題に、私はもう文化という言葉を用いることなしに取り組んでいくことにする、ということだ。文化というかつては刺激的だった照明道具は、照明をあてるべき対象にもう充分すぎるくらい光を当ててくれた。問題の所在さえはっきりすれば、それにはもう用はない。ポスト・モダンのたよりない主体たちが、自分のなけなしのアイデンティティのよりどころとしてかき集めるガラクタの集合体に、ありがたそうに鈍い光をあてるのにその言葉を使いたいというのなら、喜んでくれてやる(あ、もちろんこちらの問題も大切な問題なんだけどね。今日的状況における主体のあり方に照明を当てるっていうね。おまけにそうした自己規定・他者規定の実践は社会的空間の中での経験の制御プロセスにとってもまんざら無関係なわけでもないし。ただ人類学の可能性の中心にはないみたいな気がするってことで...)。まあ、やっぱ、日本人は茶漬けでしょう。

以上、乱筆、乱文お許しください。

不一


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp