他者の信念

今、この段階で書こうか書くまいかちょっと迷ったが(おまけに肝心な本が手元にないのだが)、いいや、書いちゃうことにする。

前回の大学院ゼミの最後の方で出た「信じる」とか「現実(リアリティ)」とかの言葉の使用をめぐっての議論だ。実はこの話題は、去年のゼミでも出たし、その前の年にも出かかった。その都度、ある程度は議論されるのだが、あまり深まらないまま立ち消えになってしまう。いつものことだ。構図ははっきりしている。誰かが、「〜は、人々にとっては現実そのものだ」とか「まさにリアリティそのものだ」とか「〜と信じている」「思い込んでいる」といった形で議論を進める。それに対して、別の誰かが「信じる」とか「リアリティ」とかいった言葉の使用そのものに対するうさんくささを表明する。とりわけ他者について、「何かを信じている」とか「それが彼らにとってのリアリティである」とか言い切ってしまうことに対するうさんくささだ。そこに「実は半信半疑」ではないだろうかとか、「本当に信じている」んだろうかとかの議論も差し挟まれる。私が「知っている」と「信じている」とはどう違うんだろうとか言って、言葉の用法自体に注意を向けようとしたりするものだから、議論のすれ違い度がますます昂進して、まぁ、たいてい立ち消えになってしまう。

というわけで、「他者の信念」について語ることの居心地の悪さと、この議論のすれ違いの根っこにあるものをちょっと私なりに整理してみたい。暫定的な整理だから、異論反論歓迎だ。

「信じる」という言葉自体は、ごく普通の日本語で、誰だって普段から何気なく使っている。「あいつ本気で霊の存在を信じていやがる」とか。別に特別なことを言っているわけじゃない。でもここで、「お前、本人でもないのに何でわかる?読心術でもできるのか?」と突っ込んでみよう。会心の一撃だ。相手はたじろいで、「だってお払いをたのんだりしてるんだぜ」とか、必死になって証拠を動員しようとする。「でもそれは状況証拠に過ぎないだろ?それだけの証拠から、彼の心の状態を君は正確に確定できるとでも言うのかい?」とどめの一撃である。もとより、人の心の中など直接には知りようもない。せいぜい間接的に乏しい証拠から類推できる程度のものなのだ。「じゃあ、気安く『信じている』とか言うなよな。」「はい、すみません。」

まぁ、普段からこの手のツッコミばっかり入れている奴は、人間関係壊しまくりだが、突っ込まれてこんな風に丸め込まれる方も、情けない。

とは言うものの、他人について使われる「信じている」という言葉に、うさんくささを感じる人も、そのうさんくささを指摘されて自信がなくなってしまう人も、だいたいここらあたりで引っかかってしまっているんじゃないだろうか。いずれも、自分自身についてなら、「信じる」っていうのがどういった心的状態なのか、なんとなくわかっていることになっている。でも、他人については、類推するしかない問題だ。ってことは、哲学上の大問題「他我問題」につながってくるじゃないかい。

でも、そうなんだろうか。「信じる」という言葉はなんらかの心的状態を描写する言葉なんだろうか。他人について「信じる」という言葉を使う場合、僕らは直接には知りえない他人の心についての仮説を述べていることになるんだろうか。

ここでわざとらしく思い出すのは、「信じる」という言葉「信念、信仰」という言葉をめぐってなされた、人類学説史上に燦然と異彩を放っている刺激的な大失敗作、ニーダムの『信仰、言語、経験(Belief, Language, and Experience 』だ。私は学生時代この本を、当時まだ30代だったN島さん(大先生)に読まされたのだが、まあなんというか粘着質というか、そこまでねちっこくやるもんだろうかというか、とんでもない本だった。読んでいて、ちょっと閉口したことを覚えている。N島さんは、この研究をずいぶん高く評価されており、何度もゼミでとりあげておられるので、一橋の社会人類の博士課程の3年以上の人なら、N島ゼミで一回は読んだことあるんじゃないだろうか。一回読んだら忘れられない本だ。

ニーダムは、夢を見たという。昔調査したペナンの人たちとおしゃべりしているんだけど、もうペナン語がまるでうまくしゃべれなくなっていて冷や汗、っていう夢だ。夢の中でニーダムが、つっかえていたのが「私は神を信じます I believe in God」という文だった。どうしてもそれをペナン語で言えないと。目が覚めてニーダムは思う。そう言えば、俺、人々は至高神を「信じ」ているとか、人々は神がしかじかの特徴をそなえていると「信じ」ているとか、平気で書いてたけど、よく考えてみたら、現地語にそれに対応する表現はなかったなぁ、それどころか「信じる」って言葉に対応する心的経験をペナンの人が実際にもってるかどうか、確認しようもないなぁ。

今手元に本がなくて(福岡に置き去りになっている)、ちょっと記憶があいまいだが、まぁ、こんな書き出しで始まっていたと思う。

ここから「信じる」という言葉をめぐってのニーダムの大冒険が始まる。最初はヌア社会だ。ヌア語には英語でbelieve と翻訳できるいくつかの言葉があるらしいのだが、それを逐一検討しながら、結局どの言葉も内容や解釈にあいまいなところがあり、どれひとつとして、神に対する人々の何らかの特定の心の状態の証拠にはならないことがわかる。といった具合に、世界中のさまざまな言語について、believe と訳されてきた言葉がいかに多様で、それぞれ異なる固有の内容を含み、英語の believe の正確な対応物でないかが明らかにされる。

ニーダムが何を言いたかったかって言うと、人類学者はさまざまな人々について、まるで「信じる」という心の状態が人間に普遍的な状態であるかのように、「彼らは...と信じる」「彼らは...を信じている」などと無頓着に記述してきた。けれど英語の「信じる」と完全に一致する言葉がない以上、それが指している心的状態を普遍的だと考える根拠はないんじゃないだろうかってことだ。

ついでニーダムは英語の belief/believe の歴史をたどりはじめる。で、それが固有の歴史的形成物だってこと、常に変化の過程にあるってことがわかる。ってわけで英語のその概念自体、複合的で、めちゃ曖昧で、不安定なんだってことが明らかになる。

次は哲学者たちの学説を検討する番だ。belief を心的状態として分析するヒューム他の哲学者をひとりひとり紹介しながら、どれをとっても belief とはどのような心的状態であるかについて、結局、満足のいく答えを与えていないと論じ進めていく。belief が指している心的状態がどんな状態なのか、だれもきちんと明らかにしてくれていないってわけだ。このあたりのニーダムの議論のねちっこさは是非見習いたいものだ。

結論は、英語の「信じる」という言葉が指しているような心的状態は、明確に定義できないし、また当然けっして普遍的なものではない、だから他の社会の人々についてこの言葉を使って、「〜人は〜と信じている」などという記述をおこなうことには意味がない、っていうとんでもない結論だ。でもお分かりのように、ニーダムが「信念」に対しておこなった同じやり口は、他のあらゆる分析概念についても適用できるだろう。というわけで、あの有名な宣言「人間経験についての唯一理解可能な事実とは、それが理解不可能だということである」が突きつけられる。

手元に本がないわりにはよく覚えているって?自分でも感心する(でも間違っていたらごめん)。それだけトラウマだったってことだ。だって考えてもみてほしい。これから人類学がんばっどーと瞳を輝かせている美青年(学部3年)に、いきなりこんな本だ。人類学なんて理論的には不可能だよといきなり言われちゃうわけだ。目が点だ。これって、今の学生にJ・クリフォードを精読させるのと同じくらいのショック療法だと思うぞ。

さて、ニーダムの議論は、一見したところ一分のつけ入る隙もない議論のように見える。個々の結論もまったくもってもっともだ。にもかかわらず、というかだからこそますます歴然とわかるというか、今だからわかるというか、このニーダムの研究はすべてがとんでもない勘違いのうえに成り立っているんだ。

ニーダムの議論は、「信じること」つまりbelief が、ある種の心的状態を指す言葉であるということを自明の前提としている。さらに彼は「信じる」という言葉をかなり限定された意味でのみ問題にしている。それによると、「信じる」とは、命題に対して人がもちうる特別な心的態度、心の状態なのだというわけだ。ニーダムの結論は、この彼にとっての自明の前提から直接導くことができる。他者の心の中身、心的状態について直接の知識を人が持ち得ない以上、なにも異文化や異言語を持ち出すまでもなく、他者の「信念」について語ることは必然的に常に大きな困難に直面せざるをえないのは、あたりまえだ。何百ページもかけるまでもない話なんだ。

もちろん、ゼミでの議論がいつもそこに収斂していくのを見てもわかるように、「信じること」がなんらかの心的状態を指しているのだと、僕らもつい思い込まされやすい。「彼は〜を信じている」という命題は、彼の心の状態について何かを述べている命題なんだと。他人にはうかがい知れない主観的ななにかに対応しているんだと。

でも、ここが大事なポイントなんだけど、実は、僕らはこの「信じる」という言葉をそんな風にはぜんぜん<使っていない>ってことだ。

「僕は霊など存在しないと信じてる」と発言するとき、僕はなにをしているんだろう。けっして自分の精神状態や心的状態を報告しているわけじゃない。そもそも仮に「信じている」というのが僕の特定の心的状態の記述なんだというのなら、それは具体的にはどういう状態のことなんだ?肝心の本人の僕が、それが具体的にどういう状態なのか述べようがないときている。わからないものは報告しようがないわけで、「〜と信じる」はその意味でも、僕の心の状態の報告になんかなっていないんだ。

これはニーダムも明らかにしていることだ。彼が検討した哲学者の誰をとっても、「信じる」という心の状態を明確に同定できていないって言うんだから。ここからニーダムは、したがって「信じる」という言葉は、明確な意味を持っていないのだなどと結論する。馬鹿を言っちゃいけない。そこから導き出せる結論は、「信じる」という言葉はそもそもなんらかの心的状態を記述するための言葉ではないってことのはずだ。というのも「信じる」という言葉は、不明確どころか、別の点では、めちゃくちゃ明確な言葉なんだから。

「信じる」と言う言葉は、なにも命題について用いるばかりじゃない。いろんな人が明らかにしているように(たとえばByron Good がそのあたりの議論を整理していたと思う)、それはもともと人(相手は人間じゃないかもしれないが)を目的語にした言葉だった。「信頼する」とか「頼りにする」とか言った方が正確かもしれない。こっちの用法からはじめた方がよりはっきりするだろう。

たとえば誰かが「私はあなたを信じます」と言うのを聞いたら、君はなんて思う?君はそれを、明確には知ることができない相手の心の状態についてのなにやら不正確な報告として受け取るのだろうか。そんなことはないはずだ。それが意味していることは、めちゃめちゃ明確だ。彼は君が行う判断に、それがなんであれ、従うだろうってことだ。あるいは君が述べることを真であるとして、その帰結に従うってことだ。そういう決定がなされたということだ。彼が「私はあなたを信じます」と言っておきながら、明日までお金を貸すことに同意しないってんなら、要するに彼は君を信じてないってことになる。「信じる」と発言することは、それなりの実践的な帰結がともなう一つの宣言を行うってことだ。ある場合には(たとえば神を信じると言った場合のように)それは相手に自分の運命をゆだねることに決めたと宣言することですらある。

命題についても同じことだろう。「〜と信じている」という発言は、「〜」という命題を真なる命題として、つまり前提として採用し、その論理上、実践上の帰結を引き受けるという決定の表明、一種の約束だ。

そう、「信じる」という発話は、行為遂行的発話(performative)という角度からとらえた方がよくわかる。「信じる」と述べることはそれ自体一つの行為を遂行することで、けっして、心的状態であれなんであれの単なる記述(Constative)なんかじゃない。ちょうど「しかじかのことをお約束いたします」という発言が、僕についての何かを描写したり報告したりしているわけではなく、「約束する」という行為の遂行であるのと同じように。もちろん「約束」という行為に、そのときどきになんらかの心的状態がたまたま付随していることもありうるが、それは「約束」にとって重要なことではない。何か特別な心的状態の存在がそれを約束にするというわけじゃない。すごいハイテンションな沈痛な情念でなされようと、ほんわか幸せ気分でなされようと、いずれにせよ約束は約束だ。実は十分に約束の心的状態じゃなかったんだなんて言い訳が、あとになって通用するわけはない。

「信じる」という言葉の問題は、その言葉がどんな風に使われているかを吟味することでかなりクリアになる。まちがっても、それが何を指しているか、つまりどのような心的状態を描写しているのかという風にもっていっちゃだめだ。そういう風に、つまり心の状態を描写する目的で使われている言葉じゃないからだ。(もしそうだってんだったら、それがどういう心的状態なのかちゃんと言ってほしい。ニーダムがきっと吟味してくれるだろう。他の哲学者たちについてやったように。その結果はほぼみえている。)

僕がゼミで、「信じている」ってのと「知っている」ってのとはどう違うかって問いを振ったのも、言葉の使用法のほうにちゃんと注目してほしかったからだ。これをそれぞれが対応している心的状態の違いとして捉えようと思ったらたいへんなことになる。僕らは、これらの言葉を常日頃、実に軽々と使い分けているが、そのときにその都度、自分の心的状態を吟味してそこになんらかの差を検知して、それに応じて使い分けているって訳じゃない。そんな面倒なことはしていないし、そもそも僕らはその二つの心的状態の違いなど知らない。

でも使用法の違いで見ると、この二つの言葉の違いは一目瞭然だ。「私は〜と信じている」という場合と「私は〜と知っている」という場合。前者では、私は「〜」という命題に対して異論が存在することを知っている。それに反対している人がいることは知っている。けれどもそのうえで、私は「〜」を真だと受け入れることを決めた、それが真であるという前提でものを考え行動していくことにしたい、とそう表明しているのである。それに対して「〜と知っている」という場合は、私が思考や行動の前提として採用している「〜」について異論が存在する可能性を私はそもそも想定すらしていない。現在の日本で私が「私は地球は丸いと信じます」と言ったとしたら、ちょっと奇妙な感じがする。みんな「地球が丸いと知っている」つまり、「地球は丸い」という命題に異論の余地がある可能性を誰も全く想定していないからだ。それに対して、たとえば「私は地球が実際には平らだと信じます」という私の発言は、内容はともかく発言としては奇妙な点はない。「地球は平らである」と言う命題に同意してくれない人がいるという事実を踏まえてはじめて「信じている」と言う言葉の使用が可能になっているわけだ。

他人を主語にした場合、つまり「彼は〜と信じている」と「彼は〜と知っている」との違いも同様だ。前者は「〜」という命題について、異論の存在が認知されており、後者はそれが排除されている。ただこの場合、しばしば異論の存在が「私」によって支えられていたりするのが、厄介な点だ。人類学でよく用いられる「彼らは〜と信じている」という言い方は、彼ら自身に言わせると「われわれは〜と知っている」となるような命題に対して用いられていることが多い。人類学者のほうで「〜」が真じゃないと考えているから、こうした言い方になるのである。その証拠に「〜」がたとえばわれわれにとっても異論のない「地球は丸い」などという命題であれば、たとえ主語が、たとえばドゥルマ人であっても僕らは「ドゥルマ人は地球は丸いと信じている」などとわざわざ書いたりしないのである。「ドゥルマ人は地球が丸いことを知っている」と書くだろう。それに対して私は躊躇なく「ドゥルマ人の多くは上の歯の神経が目の神経とつながっていると信じている」と書くだろう。「上の歯の神経が目の神経とつながっている」なんて命題には異論の余地、おおありである。なによりも「私」がそんなのは真だと思っていない。

19世紀にマラウィで活動していた宣教師たちは現地の「おろかな信仰」について報告した。それによると、現住民たちは「おろかにも」マラリアが蚊に刺されることによって引き起こされるなどと「信じている」というのである。一方、宣教師たちはマラリアが熱帯の瘴気によって引き起こされることを「正しく」「知っていた」のである。今のわれわれが記述するとすれば、事態は逆になるだろう。原住民はマラリアが蚊によって媒介されることを「知って」いたのに、宣教師たちの方は当時の誤った医学知識に基づいてそれが熱帯の瘴気によって引き起こされると「信じていた」のだということになる。

いずれにしても「信じる」と「知る」という動詞を使い分けるのに、その命題を提示する人々の心的状態をいちいち吟味してみる必要はない。「信じている」か「知っている」かの違いは、彼ら自身の心的状態の違いの問題じゃない。基準は、全く別のところにある。

「信じている」という言葉は、ニーダムが結論付けたほどあいまいでも不確定でもない。その使い方は、けっこう明確である。人を目的語にするにせよ、命題を目的語にするにせよ、「信じている」と述べることは、それらを自らの推論と行動の前提として採用すると宣言することだ。完全な根拠があるわけでもなく、異論の余地があることを認めたうえで、なおかつそれを前提として採用するという宣言である。半信半疑というのは、けっして、本当に信じきっていることと微妙に区別できるなんらかの心的状態を指しているわけではない。その帰結を引き受ける用意がまだできていない、その宣言ができかねているという未決の事態を指しているだけのことである。

他者についてこの言葉を使う際には、やや事態は複雑になる。彼、あるいは彼ら自らが「信じている」と宣言しているのなら、別に問題ない。僕らは単に彼らの語りを報告するだけでいい。そうじゃない場合、根拠の有無、異論の有無は、記述する側が判断してしまうことになりがち。「信じている」と「知っている」の使い分けが、問題含みになるのはこの点だ。でも、それ以上に問題になるのは、先週の「前提という比喩」の続きみたいな話になってしまうが、当人たちが別に「知っている」とか「信じている」とかいう形で、それを表明していないのに、観察者の方で「<あたかも>人々がしかじかの前提を採用し、それに基づいた推論の結果、しかじかの行為を選択しているかのようにみえる」という事実から、「人々はしかじかのことを信じている」と記述してしまう場合である。実際には、単なる環境的条件に対する身体的行動的レベルでの適応に過ぎないかもしれないものが、「信仰」の問題として提示されてしまう。これ危険。

というわけで、たしかに他者について「信じる」とか「信念」とかの用語を使用する際には、かなり慎重になる必要がある。それは確かなのだが、その理由は今述べたようなことにあるんで、けっして「信じる」っていう言葉が他者の心や心的状態について指す言葉で、観察者はけっして他者の心に入り込むことができないから....なんていう、一見哲学上の他我問題めいた理由からじゃないってことだ。もしそうなら、ニーダムが言うように、他者について「信じる」なんて言葉は金輪際使っちゃだめってことになりかねない。そんなこたぁない。「信じる」って言葉の使い方の基準自体は、けっこうはっきりしている。それは読心術の心得などなくても、普通に使えるし、実際使っている言葉であって、ただ、異論や合意の配列が異なる言説空間での適用に際しては注意が必要だというだけのことだ。

「リアリティ」や「現実」という言葉については、今回はきちんと別立てで論じることはできなかったが、これもけっして他者の内面的な経験、心的状態が問題になる概念じゃないってことは、これまでの議論である程度わかってもらえたんじゃないかと思う。でも、ちゃんと論じろってことなら、また機会をあらためて。

ところで最近、この断章にやけに時間がかかるようになった。文章が長くなったんだろうか。今日もそろそろ寝ようというときに、書く気になって、気がつけばもう2時間半もたってしまった。つまり午前3時だ。まいったまいった。おまけに、なんだかいつも以上に緻密さにかけた議論だなぁ。

というわけで、異論、反論、質問、大いにありだと思うけど、遠慮せずに議論吹っかけてきてちょうだい。


不一

参考文献

Needham, R., 1972, Belief, language, and experience. Oxford : Blackwell

Good, B.J., 1994, Medicine, rationality, and experience: an anthropological perspective, Cambridge University Press


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp