毎週書いたろ思もとったけど、これけっこうしんどいな。もう金曜日になってしもた。こんなん書くのに1時間以上かけるのはいややから、さっさと書いてしまいたいしな。とは言うても、ネタ考えるのに30分やろ。書いた後 html にするのにまた30分。わし、エディタでタグ直接書き込んどんねん。ローテクなんや。そやから2時間はつぶれてしまうわな。CD2枚は聴ける時間やんか。もったいない話や。
いきなり言い訳で堪忍な。そやねん。今回も小ネタや。
ほな、始めるで。今日はバフチンや。修士の学生はんらがバフチンの読書会やっとうて聞いてな、わし、そっちには出られへんけど、久しぶりに読んだろかっちゅう気になったっちゅう訳や。わし、真似しぃな人間なんや。そやけど、ほんまのこと言うと、わしバフチンちゅうか、文芸評論みたいなん、ちょっと苦手なんや。20年以上前に読んだんやけどな、『ドストエフスキー論』ちゅうてな、まあ、そのころバフチンちょっと流行っとったん違うかな。わしが読も思たくらいやからな。けど、やっぱりきつかったわ。そらドストエフスキーは高校のとき、わし、けっこう熱中しとったで。たいていのは読んだんちゃうかな。そやけど、そんな細かいとこまで覚えとらへんっちゅうんじゃ。読んだことのある話やったらまだましや。バフチンはわしが読んでようと読んでまいとお構いなしや。びしびし分析して行きよる。こっちは、へぇ、さいでっかっ、ちゅうしかないやんか。なんせ読んでへん、知らへんねんもんな。そや。ようわかったな。わし、映画評論とかも嫌いなんや。見てへん映画の話されても、ちいとも嬉しないわい。
当時わしがバフチン読んだんは、ほんまはドストエフスキーがどうこう言うよりも、ポリフォニーとかカーニバルとかの話、どっちか言うとカーニバルやな、そっちの話の方が目当てやった。象徴的転倒とか両極端のアンチテーゼの一致とかな、そのころの人類学が面白がっとった話や。多声性の話もそれなりに面白かったけどな、わしアホやったんやな。「他者性いうたかて、結局そいつらの声も全部書いとんのはドストエフスキー自身やろ?自分で考え出して書いとるわけやろ。それやったら、やっぱり作者が最終的には支配しとるちゅうことやないか。モノローグっちゅうのとどう違うっちゅうんじゃ」みたいな、どんなドアホでも思いつきそうな批判して得意がっとったっちゅうわけや。
今回読んだんは、ちくま学芸文庫の『ドストエフスキーの詩学』や。邦題もちごとうけど、訳も新しなっとおらしいな。20年以上たって、わしドストエフスキーについてはさらに忘れてしもとった。「カラマーゾフの兄弟」やらどんな話やったかっちゅうことすら、もう思い出されへんくらいや。ほんま歳とるっちゅうのは、せつないな。そやけど前回より、よおわかった気になったとこもあったで。そや、80年代の民族誌論経由で、対話とか多声性とかに注目する素地が出来上がっとったおかげや。
民族誌論の文脈でバフチンの主張は、なんとなくこんな風に理解されとったんとちゃうやろか。近代の哲学にしろ、言語学にしろ、文学にしろ、みんな一つの意識の中に閉ざされた単一の体系性で特徴付けられとる。結局はモノローグやと、独り言やと、酔っ払いがクダまいとんのと一緒やと(ちがうか)。それに対してバフチンは、ポリフォニック、つまり多声的なもっと複雑で高度な体系性を対置しやはったと。たとえばドストエフスキーの世界がそうや。これまでの小説、モノローグ小説でやったら、客体として造形された登場人物らが作者の思うとおりに自由自在に操られ、筋書きの中に配置され、一つの世界に関係付けられとったわけや。そんで、結局作者だけが言いたいことを言うとるちゅう按配になっとったわけや。ドストエフスキーの小説の中やと、登場人物は作者とはりあう、自前の意識と声を持った主体になっとって、こうした異なる声のあいだの対話がぎくしゃくぎくしゃく複雑な展開していくんが物語になっとる。そこで描かれとう世界は、作者が前もって決定しとった統一やのうて、多数の声の対話的交錯を通じて、どないなるかわからん不確定性をはらみながらできあがっていくちゅう、ややこしい統一性、閉鎖的やない統一性みたいなもんからなっとる。当然、作者だけが言いたいこと言うちゅうわけにはいけへん。まあドストエフスキーえらいっちゅうか、モノローグ小説くたばれ、ポリフォニック小説バンザイっちゅうか、すぐわしなんか単純に納得してしまうわけや。
クリフォードがバフチンのこの議論を引きながら、民族誌を批判したちゅうのは皆も知っとるわな。フィールドワークの実践ゆうたら、そら、とことん対話的な実践や。そやのに民族誌がモノローグな語りになってしもとるっちゅうのは、どういうこっちゃ。民族誌家の権威的な声しか聞こえへんちゅうのは、けしからんやないか、ちゅうわけや。こんなふうにドヤされたら、びびってしまうがな。わし素直に、そやこれからは多声的な民族誌書かなあかんねや、とか思てしもたやんか。
今回な、バフチン読み直して意外やったんは、わしらの(わしの)今言うたみたいなバフチン理解が、ちょっと違ごとるみたいやなぁいうことや。わし、いつのまにか、人が書くもん言うたら、モノローグ的なテキストになってしまうんが普通で、そやからポリフォニックなもん書いたドストエフスキーがえらいんや、ポリフォニックなテキストっちゅうのはそう簡単に書けるもんやないで、みたいに思てしもとった。
そやけど、ほんまは反対やったんやな。バフチンのこの本な、ねらいの一つは、多声的なテキストの中に、単一の統一性、作者の一貫した意図とか世界観とかテーマとかを読み取ろうとしたらあかん、ちゅうことや。モノローグ小説に馴れた文芸批評がやっとったことに対する批判がバフチンの第一のねらいやったと思う。ドストエフスキーの作品は、めちゃ多声的で対話的なテキストやから、そうした分析では捉えきれへんのは当たり前やっちゅうことや。ほな、ドストエフスキーがポリフォニックな小説としてどんな風に分析できるかを示してみせたろやないか、ちゅうわけや。
そやけど、よう読んでみたらすぐわかることやけど、バフチンはほんまはあらゆるテキスト、あらゆる発話がもともと多声的で対話的なんやて言うとるんや、ちゅうことがわかる。
「我々の実際の日常生活的な発話には、他者の言葉が満ち溢れている。我々は、ある他者の言葉については、それが誰の言葉であるのかを忘れて、それに自分の声を完全に融合させたり、また別の他者の言葉については、それを自分にとって権威ある言葉として受け取り、それによって自分の言葉を補強したり、さらにまた別な他者の言葉については、そこにその言葉に無縁な、あるいは敵対的な自分自身の志向性を組み込んだりしているのである。」
まあ、当たり前や、わしらが喋る言葉も書く言葉も、どれ一つとってもわしが自分で調達したり自前で製造したりした言葉やあらへん、誰かがどっかで喋ったかも知れへん言葉やら言い回しやらばっかりや。だいたい気の利いた言い回しとか、ほとんどが、誰かが言うとんの聞いて、お、気ぃ利いとるやんかとか思て、いつのまにか真似して使ことうみたいなもんやもんな。そればっかりやない。わしら普段喋ったり書いたりしとうとき、実際にそこにわしら本人の声だけやのうて、よその特定の人の声も響かせとるやないか。例えば、わしが「やっぱりトランスポジションやで」とか言うたら、ほら、みんなわしの声の背後に、太田(好信)さんの声が響いとるんがわかるやろが。逆に、他者の声をいっさい排除した「わしだけの語り」とかやろ思たら、かえって難しくらいや。
つまりや。バフチンやクリフォードが言うような意味でのモノローグ的語りっちゅうのは、成り立つんがむしろ不思議なくらいなんや。語りだけやないで。もともと、わしらの意識そのものが多声的やし、対話的なんや。わしなんか、いつも「ええもんのわし」と「悪もんのわし」の二人で言い合いばっかししとるわ。たいてい「悪もん」が勝つけどな。
一見モノローグ的なテキストとか語りとかちゅうのは、もともと多声的で対話的な意識やテキストから出発して、逆にめちゃくちゃ苦労して手をかけんとでけへんもんなんかもしれん。テキストにしろ、意識にしろ、わしら苦労して一生懸命それをモノローグ的なもん、単一の体系性、ひとつの「わし」というまとまり、にしてしまおとしとるんかもしれん。バフチンも言うとる。
「モノローグとは、先に我々が定義したような、近代のイデオロギーとしてのモノローグ主義の土壌に形成された、ある制約されたイデエ表現の構成形式にすぎない」
一所懸命練習して、身に付けた制度やっちゅうわけや。
そやから、「ほっといたらモノローグになってしまうから、工夫して多声的にしよ」ちゅうんは、ちょっと倒錯した企てやちゅうことになる。多声的民族誌とかいう試みがたいがいあほらし結果に終わっとるみたいに見えるんも当然かもしれん。テキストを私有化して、「わしのテキストや!」っちゅうて、一貫性とかまとまりとかつけたろいう強烈な意志のもとで遂行される多声的テキストの試み、って笑ろてしまうわな。
バフチンがわしらに気付かせてくれたんは、わしらの語りや意識が、実はとことん多声的で対話的なポリフォニックな統一性やっちゅうことやったんかもしれん。もういっぺん、そんなもんやと思てテキストやら意識やら捉えなおしてみたら、民族誌の書き方とか、そんな瑣末な話やのうて、もっと面白いもんが出てくるかもしれんわな。ま、少なくとも憑依とか(いきなり個別ですまんな)オカルトとか考える上で、ちょっとは手がかりになるかも知れへんな。
ところで「わし」誰やねん。はっきり言うて、浜本やないで。っちゅうか、なんや浜本満を「わし」が乗っ取っとるちゅう感じや。そもそも浜本はこないな喋り方せえへんしな。しんきくさい奴ちゃねん、あいつ。どや、わしのこの語り自体が、多声的でけっこう対話的なテキストになっとるやろ。
つまらんオチやて?ほっといてんか。なんや話がばらけて、あせってしもとってん。来週から新学期が始まってまうから、浜本もいそがしなって、わしに好きにさせてくれへんかもしれん。もう毎週っちゅうわけにはいかへんな。なに?誰もそんなこと期待しとらんて?さよか。ほなな。