「前提」という比喩:補足と回答

T君、質問ありがとう。こうしてちゃんと突っ込んでくれる人が一人でもいると、私としても少しは張り合いがあるというものだ。と言うわりには、3週間以上も放置してしまって申し訳ない。ご存知のように、そのつど先に片付けなきゃならない問題が出てきてしまったからで、けっして君の質問を無視していたわけじゃないよ。最近はこの補足を書くのに2時間くらいもかかってしまうことが多くて、そういくつも書くわけにはいかないんだ。それにすでに先週あたりから講義が完全に自転車状態になっている。

さて、4月25日の『「文化」という言葉で語られるいくつかのことがら』のなかで、人類学者たちが「文化」についてさまざまな比喩を用いて語ってきたと私は言った。この点に関する質問だ。たしかに「フィルター」とか「色眼鏡」が比喩だというのはわかる。でも「人々の生活を支える『前提』」というのが同じく比喩だという点はちょっと納得いかなかったということだね。教科書(『人類学のコモンセンス』第一章)をちゃんと読んで、こういう質問をしてくれるってのも感心だ。ほめごろしじゃないぞ。

さて言うまでもないことだろうけど、「前提」という日本語には、いろんな使い方がある。こういう議論は往々にして辛気臭いことになるが、ちょっと我慢してつきあってほしい。

まず「前提」という言葉が、単なる因果的な関係に言及している場合があるという点をおさえておこう。つまりAがBを「前提とする」という表現で、AとBとの因果的つながりが述べられている場合である。「燃焼は酸素の存在を『前提』としている」といった具合である。同じような意味で、「植物は水の存在を『前提』としている」わけで、「水の存在」を「植物の生活を支える『前提』」だと言ってもよいだろう。だからといって、誰も「水の存在」が植物にとっての「文化」の一部だとか言い出したりはしないだろう。もちろん空気や水の存在は人間の生活を因果的に可能にしているという意味で「人々の生活を支える『前提』」でもあるわけだが、「文化」が当然そういったものを指している訳じゃないってことは明白だ。「前提」という言葉がこの用法で用いられているだけだと、余計な混乱は起こりそうにない。

しかし、おそらくこちらのほうがより一般的な使い方かもしれないが、「前提」という言葉がある種の論理的操作、推論過程と関係付けて用いられる場合がある。「前提する」ということは、仮定するとか、それを真実だとみなしてみるとかと同じ意味で、一種の判断作用を含んでいる。しかじかのことを「前提」する、つまりそれを真実だ、あるいは当然のことだと認める。そこから、論理的操作つまり推論により、かくかくしかじかのことを結論できる。ある人の振る舞いが、こうした意思決定によって、つまり推論の結論としてなされているとするならば、その人の振る舞いを理解しようと思えば、彼がどういう前提からどんな風に推論したかを知ればよいことになる。

言うまでもなく、「前提」という言葉が「文化」の比喩として使われているときには、それはもっぱらこういった用法でだ。なんといっても他の社会の人々の振る舞いや慣習を理解したいって訳なんだから。

えっ?これのどこが「比喩」なのかって?比喩でもなんでもなくて、そのものずばりじゃないかって?うーん、一見たしかにそう見えちゃうよね。で、こうした諸「前提」を(そしてもしかしたらその人々固有の推論規則を)知ることが、その人々の振る舞いを理解するための、最短コース、王道だってね。無理もない。実は私も、そんな風に考えていた時期があった。人々の行動を理解するためには、人々が状況をどのように認識しているか(状況についての命題的知識)+諸前提(公理、公準)+意思決定(推論規則、プログラム)=実際に取られる行動、なんてね。

でも注意してほしい。このやり方での行為理解が有効なのは、上でも述べたように、その人の振る舞いが実際に「こうした意思決定によって、つまり推論の結論として」なされている「とするならば」なのだ。もちろんそういう場合もある。というか、われわれが自分の実践についてすごく自覚的になっている場合は、たいていあれこれ考えているときなので、行動がある種の命題処理、論理的倫理的算術の結論であるような様相を呈している。でも少し考えてみればわかるように、これは僕らが日常とっている行動のなかの、目立ちはするが、ごく小部分にすぎない。たとえば、友人の家を訪問して玄関で靴を脱いで上がるといった一連の振る舞いの中で、どんな複雑な命題計算が頭の中で進行しているってんだろう。前提も推論もくそもないと思う。もちろん、「おっと靴はちゃんとそろえておこうか」なんていう枝葉末節なところに意識を働かせてはいるけれど。

人間の行為を理解する際に、それをつねに頭の中での命題計算のような処理をともなうものとして理解するのがいかに無理があるかについては、イギリスの哲学者ギルバート・ライルって人がとてもわかりやすく論じてくれているので(日本語訳はちょっとわかりにくいかもしれないけど)、ぜひそちらを読んでほしい。「心の概念(The concept of mind)」って本だ。私は大学院のときにこれを読んで、研究の方向を180度転換させられてしまったってくらいの本だ(ちょっと大げさ?)。その後ブルデューの「実践感覚」(っていうか、私が読んだのは Outline of a theory of practice のほうだけど)を読んだとき、なんだライルのパクリじゃないかって思ったほど(今でもそう信じていたりするのだが...)。

ここではくわしい議論は省略するけど(ってまた面倒くさくなってきたな>私)、ようするに「文化」を行動の諸「前提」だってすることは、人間の文化的な行動(あ、特定の社会空間の中で独特の仕方でチューンされた行動ってことね)を、特殊な意思決定の様式に、そして論理的な命題操作にたとえているってことだ。で、ほとんどの行動において、実際には誰もそんな命題操作をしている覚えがないので、例の決まり文句、便利なフレーズが登場することになる。「暗黙の」ってやつだ。しかじかの命題を「暗黙のうちに」前提して、「無意識のうちに」命題操作(推論、意思決定)した結果として、かくかくしかじかの仕方で振舞っているってわけだ。こうすれば、全体が比喩だってことに気づかれにくくなる。

「暗黙のうちに前提する」ってのが具体的にはどうすることで、無意識のうちに推論するってことがどんなことなのか、わかっている人がいたら教えてほしいものだ。 単に、人々の行動が、「あたかも」、人々がしかじかの事柄を前提とし、それに基づいて意思決定しているかのように理解可能だというだけのことだろう。だから比喩なのだ。

もちろんあらゆる理解のモデルは、ある意味で比喩システムであり、そのこと自体を非難するのはお門違いだ。それがどんな洞察を提供し、どれくらい説明力があるかで判断すればよい。でも、万一その比喩、あるいはモデルがとんちんかんな方向へ、僕らを引っ張って行くとしたら、それは要チェックだろう。

このモデルのもっとも具合が悪い点は、それが、文化という制御のプロセス、つまりある社会空間における人間の行為のチューニングのプロセスを、複雑な相互行為とコミュニケーションの回路のなかで行われる動的なプロセスと見ることを妨げる、って点だ。それは、人間の文化的行動を一種の静的な命題システムのようなものに見せかける。下手をすると、実際60年代〜70年代のエスノサイエンスと呼ばれた人類学のひとつの流れが夢見ていたみたいに、それは人類学の仕事を特定文化のユークリッド幾何学を書き上げるような仕事にしてしまいかねない。

このモデルがもつ不思議な説得力には別の、いささかくだらない理由もある。でもそれによって、状況にチューニングされた、ありとあらゆる行動パターンがなんらかの「暗黙の前提」のうえに立った推論の産物として示せることになるわけだから、けっしてくだらないなどと言ってはいけないのかもしれない。それは冒頭で区別した「前提」のもうひとつの意味、因果的関係に言及する用法の、裏口からのもちこみだ。これがなかなか有効に働いている。手を明かしてしまうと、実にばかばかしいのだが。

人間にせよ、他の生物にせよ、環境(他の個体の存在を含むさまざまな生存条件)に複雑な形で行動適応している。つまりチューンのあった存在になっている。このチューニングはそれこそ生物学的レベルから、言語記号などを介しての複雑な情報処理のレベルまでさまざまなレベルでなされている。「前提」という言葉の最初に述べた二つの使い方で、あらゆるレベルにおけるこうした関係が記述できるみたいな錯覚が生じてしまう。

たとえば最初の因果的用法で、「ダニは哺乳類の存在を前提としている」と言うことができる。いや単純ではあるが、ダニの生活はそれ以外にも実にさまざまなものを「前提」としているにちがいない。こう述べた場合、これを聞いて誰も、ダニの複雑な命題操作、心的過程について思いをはせたりしないだろう。別にダニが「論理的操作」として何かを「前提」しているわけではない。ダニにはそんな大それた頭はないと僕らにはわかっている。

ところが人間が主語になると、すべてが反対の方向に動いてしまう。「人は空気の存在を前提としている。」もちろん空気のないところで生きるのはめちゃめちゃ難しい。でも、これを聞いて、人間が空気の存在を「命題」としても「前提」としているという意味にとる人もいないとも限らない。いや、おれはそんなこと前提にしてないよなんて反撃するわけにはいかない。じゃ、空気がないと思ってるの?とか言われると、いや、たしかに空気があるということは当然知ってるけど...みたいなことになる。じゃあ、やっぱり君は空気の存在を「前提」としてるじゃないかい。はい、そのとおりです。てな具合に、単なる存在条件に過ぎないありとあらゆるものが、命題として「前提」とされていることにされてしまいうる。

このあたりの例だと、ばかばかしさに誰もが気づくだろうが、次のような例はどうだろう。しかじかのところでは、「死者の霊の存在が前提とされている」というようなケースだ。おそらくこれを聞いた人のほとんどは、それを命題的な操作の意味での「前提」と受け取ってしまうだろう。それによって、その社会空間において、人々が霊というヴァーチャルな実在物に対して行動的、コミュニケーション的にチューンされているという可能性が見えなくなってしまう。

私がこのモデルが危険だというのは、こういう意味だ。


m.hamamoto@anthropology.soc.hit-u.ac.jp