泉鏡花「竜潭譚」より

あ ふ 魔 が 時

 わが思ふ処に違はず、堂の前を左にめぐりて少しゆきたる突あたりに小さき稲荷の社あり。青き旗、白き旗、二、三本その前に立ちて、うしろはただちに山の裾なる雑樹斜めに生ひて、社の上を蔽ひたる、その下のをぐらき処、孔の如き空地なるをソとめくばせしき。瞳は水のしたたるばかり斜にわが顔を見て動けるほどに、あきらかにその心ぞ読まれたる。

 さればいささかもためらはで、つかつかと社の裏をのぞき込む、鼻うつばかり冷たき風あり。落葉、朽葉堆く水くさき土のにほひしたるのみ、人の気勢もせで、頸もとの冷かなるに、と胸をつきて見返りたる、またたくまと思ふ彼の女はハヤ見えざりき。何方にか去りけむ、暗くなりたり。

 身の毛よだちて、思はず《あなや》と叫びぬ。

 人顔のさだかならぬ時、暗き隅に行くべからず、たそがれの片隅には、怪しきものゐて人を惑はすと、姉上の教へしことあり。

 われは茫然として眼を瞠はりぬ。足ふるひたれば動きもならず、固くなりて立ちすくみたる、左手に坂あり。穴の如く、その底よりは風の吹き出づると思ふ黒闇々たる坂下より、ものののぼるやうなれば、ここにあらば捕へられむと恐しく、とかうの思慮もなさで社の裏の狭きなかににげ入りつ。眼を塞ぎ、呼吸をころしてひそみたるに、四足のものの歩むけはひして、社の前を横ぎりたり。