今回の講義の目的
コースト社会を特徴付けていた patron-client ネットワークの弱体化を、第一次世界大戦後のモンバサの都市再開発の過程を通じて見る。続いて、その後に起こった民族境界の可視化の過程と、後背地の人口が「民族集団」として成立していく過程をあきらかにする。
モンバサと後背地社会の分断
モンバサと後背地社会をつなぐネットワークの弱体化
しかしより根本的な変化は20年代以降に生じた←モンバサの都市再開発
- 未開/文明の二項対立
保護→管理・介入→自発的発展への介入・妨害(→反乱)- 統合された部族というイメージ→新しい権力構造
- アラブ・スワヒリ商人、官吏の追放
モンバサ再開発
モンバサ、オールドタウン
モンバサ都市計画は1910年ころからの課題。ホブリーはそれを熱心に推進するが、本格的な実施は 1920年代にはいってから。
モンバサの長い歴史、無計画な発展 ↓ ヨーロッパ人の目には「無秩序」、「手ごわい都市」 (管理の問題) 区分と分離 ヨーロッパ人居住区/アフリカ人居住区 (資金難のため実現せず) 1912 肺炎の流行 ↓ ホブリー都市改造の情熱 「白人居住区とアフリカ人居住区のあいだに線引きを 行い、兵士にガードさせる。島の住民が島外に出ると きは7日間の隔離キャンプ。島外からの人々との商い は鉄条網を張り巡らした特別の場所で、柵越しに」 →島の人口が汚染源だと考えられている 衛生学的汚染 ≒ 道徳的汚染(比喩的同一性) 1913 シンプソン計画 シンプソン教授の派遣 南アのケープタウンの都市計画の立案者 居住地区の分離 あいだに公園などの公共スペース(汚染の広がりを防ぐ) アラブスワヒリ/後背地の住民 浄 / 不浄 「スワヒリや海岸部の人々の清潔な生活習慣とその徳は ...彼らの住いが、未開のアフリカ人たち--自分たちの村 では清潔な生活を営んでいるとしても、都市生活の諸条件 に適応できないのだ--を宿泊させている家々と入り交じ っていたりすると維持しがたいだろう。」 スワヒリ人の模範集落(モデルタウン)と流入して来た 浮動人口を収容するロケーションとの分離 ここに見られる植民地的想像力の構造に注意 1914 土地買収開始 実質的には進展せず 1926 新都市計画=シンプソン計画の実現化 スワヒリ人=道徳的汚染者 スワヒリ人は都市への出稼ぎ労働者の勤労意欲を汚染してしまう ↓ 旧住民/新規流入民の分離 道路および公共建設による大規模な立ち退き モンバサのネットワーク 地主―家主―店子―新規移住者 =Patron-Client関係 借地料・家賃なし 立ち退き: 地主のみに保証、家屋の持ち主には保証なし 地主/借地人の利害の対立 人口、モンバサ西部地域に移動 モンバサ西部地域の土地のほとんどは法人所有 ↓ 借地料の負担 家屋の賃貸化 都市のP−Cネットワークの収容力低下 都市はセキュリティなしの場所 ↓ 労働形態の変化 後背地の屋敷との繋がりを断たない出稼ぎという形に 都市の恒常的住民/出稼ぎ民 の区別の可視化 エスニシティがネットワークの重要な要素となる
続いて、すでに町の住民となりスワヒリ社会に組みこまれていた後背地出身者たちに対する排除がはじまった。植民地ケニアの中央政治を特徴付けていた非原住民特権をめぐる問題がその中核にあった。こうして19世紀までは柔軟で流動的だった各共同体(ネットワーク)の境界は次第に硬直化し、「民族(部族)」が排他的な単位として可視化していった。
民族(部族)とは何か? 生得的に決定された変更不可能な排他的成員権 植民地以前の「部族抗争」? 人口区分の可視化(1920年代後半) ↑ 都市再開発にともなう都市のP-Cネットワークの弱体化 本来の都市住民/新規流入民 アラブ スワヒリ:都市のネットワークに組み込まれ済の人々 流入民 流入民の間の区分 海岸部後背地出身者/アプカントリー(内陸部)出身者 アプカントリー出身者→常雇い contracted laborer 完全な部外者として、いずれのネットワークに属するオプションも もたない 臨時雇いの方が人気があり、競争が激しいため彼らは排除された。 後背地出身者 →臨時雇い casual laborer より大きなセキュリティと保護を与えるスワヒリネットワークを 選択 >西洋人、企業との雇用契約 ↓ スワヒリネットワークからの排除 家族を出身地に維持して、そこにお金を持って帰る方が より安定した生活が可能 出身地ネットワークの延長=「出稼ぎ」という形態 都市滞在は一時的 リクルーター自身が出身地域 との関係を継続 ↓ 都市内部では同郷・親族ネットワーク ↑ 後背地での増税(Hut Tax 1923 1911年当時の6倍) 家畜の価格下落 後背地の屋敷は若者の賃労働に依存するように なる アラブ・スワヒリ/後背地出身流入民/内陸部出身他集団 ↓ 植民地的「分類」プロジェクト→より現実的に ノン・ネイティヴ特権 よそ者であること(アフリカ人でないこと)の特権 民族境界の可視化のもう一つの要因 「民族区分」に基づいた諸権利の法的配分 それぞれの「民族区分」に異った権利を与える 植民地的権利配分 外来者 > 土着民 ‖ 入植者 インド人 文明 未開 (参考)立法評議会(Legislative Council)メンバー 1907 総督 +植民地上級官僚 +白人入植者代表(総督による指名) 参政権を求める白人入植者の運動 インド系住民の運動 アラブ系住民による運動 1924 総督 +植民地上級官僚 +白人入植者代表11名(選挙) +インド人5名 +アラブ人1名 (アフリカ人は1944年にようやく1名(指名)の代表) 1952 官僚26名 民間人28名 白人入植者 14名(選挙) インド人 6名(選挙) アラブ人 2名(選挙) アフリカ人 6名(指名) アラブ人による非原住民特権の要求運動 かつての海岸地域の支配者として特別待遇を要求 かつての地位に対する補償金の支給 スワヒリ人によるnon-native特権要求 12タイファがアラブやペルシャ起源を主張 ↑ 植民地行政は拒否 原住民とあまりに交じり合い、通婚しあっていて もはや原住民となんの違いもない 単なる法的・経済的動機よりもむしろ名誉の問題 スワヒリカテゴリーは侮蔑的使用の定着 アラブに対して一段劣った存在と見られることに対する拒否 真の「尊敬に足る」スワヒリ人が他の疑似スワヒリを区別 「海岸住民についての知識をもっている人なら、誰だって アラブ起源の真の12氏族メンバーとニイカ出身の連中を 見分けることができる」 ↓ 植民地行政はモンバサ住民を一まとめにスワヒリと呼ぶことを 止め、12氏族に、真スワヒリと従属民を自分で選別すること を求める ↓ すでにスワヒリとして暮らしていた編入済みの人口を排除 ↓ P-Cネットワークの解体 排除された人口→後背地へ ↓ 後背地のネットワークに編入される ↓ ミジケンダの人口増加 とりわけドゥルマ ドゥルマ 16,000(1916)→100,000(1960s) 後背地の住民の新しいアイデンティティ ‖ ミジケンダ mijikenda 1940s モンバサに働きに出た後背地出身者たちが mijikenda union を結成 mijikenda union の創始者 ムゼ・ムハンマドはカウマ出身で スワヒリ12氏族に編入し、貿易商として出世した大物の一人 non-native 特権を申請するが拒絶されたことで頭にきて結成 ↓ モンバサに働きに出ている労働者がモンバサで死んだ者を故郷で埋葬 するために搬送する費用を提供する互助組織 数年で解体 ↓ ミジケンダという言葉自体は後背地民の新しいアイデンティティと して残る ↓ ミジケンダ・ユニオンに属した若者たち ↓ 新世代のリーダー 民族境界の可視化と虐殺 ルワンダの事例から
Bennett, G., 1963, Kenya, A Political History: The Colonial Period, London: Oxford University Press
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