講義メモと参考文献


第十回講義

ギリアマの反乱(2)
:カタストロフ

今回の講義の目的

ギリアマの反乱とその悲劇的な結末に至る過程における、現地人よりの行政官の存在の皮肉な役割を通して、彼らをからめとっていた植民地的想像力の呪縛力の強さが明らかになる。

ギリアマの反乱:植民地的想像力の合わせ鏡

メカタリリの誓い: 1913年10月

メカタリリという女性が、女性たちを集めてヘッドマンたちを非難、伝統への回帰を呼びかける

「メカタリリとワンジェは、雨ごいをするという言い訳のもとに密かに人々を集結させた。このメカタリリと言う名の妖術使いは、ヘッドマンたちがギリアマの若者をヨーロッパ人に売り渡すことと引き替えに、1000ルピーを受け取っている。売られた若者達は海外につれて行かれ、そこで奴隷となって一生帰って来れない。今こそヨーロッパ人に対して立ちあがるべきときだ。そう言って人々を扇動した。」(Champion による報告)

「薬」による「誓い kiraho」の儀式

カヤ(儀礼的中心になっていた)での「呪薬」による「誓いkiraho」
女性たちはムクシェクシェの呪薬を、男たちはハイエナの呪薬を用いて「誓い」を立てた。呪薬は水源に投げ込まれた。

「伝統的」儀礼?
マズルイ戦争(bin Rashid の反乱)の際のハーディンジによるハイエナ呪薬の使用と奇妙に似通っている
→植民地的想像力の「合わせ鏡」効果

チャンピオンの怒り

「断固たる処置をとるべきときが来た。そして行政を健全な基盤にのせるべきときが。部族はそのときに、そのときに初めて、自分たちの身分を思い知るだろう。黒人種を守備良く統治する上で不可欠な尊敬を勝ち得るためにも、我々のルールが優先するべきであることが示されねばならない。」

メカタリリとワンジェの逮捕(10月17日)

チャンピオンは5月の時点での自分の見解を撤回し、懲罰措置として、ホブリーの賃労働者化の方針をより強力に進めることを提言する。

サバキ川北岸からギリアマを締めだし、彼らの居住を「保留地」の内部に限定すること

「モドゥングニとガラシの肥沃な土地を失うことは、部族の最も手に負えない連中にとっては、二度と忘れたりできない罰になるだろう。」
「知性ある人々の管理下にありさえすればコーストの全需要を満たすに足る米が栽培できるだろうはずのこの肥沃な黒土の土地が雑草に紛れているのは恥じるべきことだ。おまけにこの土地は原住民の保留地に隣接しているのでヨーロッパ人は簡単に必要な労働力を手に入れることができるだろう。」

外圧

投資家たちからの非難:「海岸部の開発の遅れ」
労働力の不足→ミジケンダをちゃんと支配できていない

「この豊かなコースト地帯の未来の発展は賢明な行政にかかっている。.... この価値ある英国の所有地の発展に投資家たちの信頼を回復させることができるのは、なんらかの根本的な行政改革のみである。」(英国セクレタリ)

→ホブリーは批判の矢面に

ギリアマの非協力で後背地の行政は事実上麻痺に陥っていた

「恐怖」の合わせ鏡

1913年9月末チャンピオンが医療休暇を終えて赴任地に戻ってくると
「チャンピオンが自分たちを討伐する戦いの準備を整えて帰ってくる」と言う噂

おびえたギリアマたちは家畜を遠方に隠し、食糧を備蓄し、武器を整えて自己防衛の用意

「彼らは単におびえているのであって、私や警官たちを実際に攻撃しようと企んでいたわけではない。」(Champion)


しかしホブリーはこの報告をギリアマの「戦争の意図」の証拠と考える

尋問ツアー:1913年10月末

ホブリーはギリアマの攻撃が、自分たちをコーストから追い出すほどのものだとは考えていない。英国のコーストにおける立場はまったく危険にはさらされていなかった。しかし、これはホブリーの顔をつぶす「許しがたい」反抗行為だった。

「尋問」ツアー
各地のリーダーと思しき長老と対決して、自白を強要

十分な自白→カヤの閉鎖を宣言・長老たちのカヤからの退去

→新しいリーダーによる新しいカヤの建設

反抗に責任のある伝統的な長老の権威をそこない、政府に忠実なヘッドマンの権力の強化
「部族はあからさまな反乱の淵に立っていた。部族の中心法廷でのすばらしい努力によってそれは未然に食い止められたのである。こんな風にして、事態は一旦は平静をとりもどした。しかし反乱の底流は常にそこにあって、機会を見付けてはまた浮上しようとしていたのだ。」

サバキ川北岸部からのギリアマ人退去の実行計画:デッドライン 1914年8月1日

ギリアマの反乱 1914

新しいカヤの建設

7月1日の作業開始をめぐるトラブル→カヤの焼払

サバキ北岸部からの退去

5月に入ってもギリアマは退去の動きを見せない

デッドラインの延期 10月1日
10月以降にサバキの北岸にいる者は警官隊によって強制退去、家も焼き払うと宣言

ホブリー、突然6か月の休暇をとる→ヘムステッドが代行

第一次世界大戦が東アフリカに飛び火 1914年8月4日

衝突

8月15日づけのヘムステッドからの電報:8月25日までに緊急に1000人のギリアマをポーターとして用意するよう要求

「強制なしには一人の労働者も手には入らないだろう」(Champion)
8月17日、警官隊とともに到着

レイプ事件がきっかけになり武力衝突

反乱拡大

KARの投入→出会ったすべてのギリアマ人に攻撃を加え、村むらを焼き尽くす

エスカレートする戦闘

第二次のKARはギリアマに壊滅的な打撃を与える

反乱のもたらした影響

困難な終結

終結

        10月5日
	北部地域の長老たちを召集して条件をつきつける
		部族の長と、反乱の首謀者の出頭
		1000人の労役提供
		100,000ルピーの賠償
		サバキ北岸部からの退去
		一週間以内に

	懲罰としての平和
		平和条件の履行の遅れ→軍事的懲罰
  
	この条件に対してチャンピオンは反対するが却下
	
	
	1914年の終りまでに
		141人の労役提供、うち43名逃亡
		30,000ルピーの支払い

		5000の家屋焼失
		3000頭のヤギ召し上げ
		150人の死者

	1915年1月
		KAR→さらに600の家屋焼失
		        3000頭のヤギ55頭のウシ
			23人の人命

	1915年9月
		賠償金完了
		労役の提供
		「首謀者」などいないというチャンピオンの見解に同意

後背地経済の崩壊

参考文献

Brantley, C., 1981, The Giriama and Colonial Resistance in Kenya, 1800-1920. Berkeley: University of California Press

Taussig, M., 1993, Mimesis and alterity : a particular history of the sensesNew York: Routledge.