講義メモと参考文献


第八回講義

英国の目論見と誤算(2)
:文明/未開 の図式の東アフリカ的変形


今回の講義の目的

イギリス植民地統治の初期において直面した課題とは。その難問と取り組むなかで未開と文明の二項対立図式が反転していく。

ケニア海岸部における文明と未開の二項対立

二項対立図式の変奏

未開 文明
不潔 清浄
野蛮・残虐 人道的
怠惰 勤勉
子供 大人
etc. etc.
...... ......
西洋(自己) 非西洋(他者)
この図式は他者の内部でも反復可能  

            自己(西洋)/ 他者(非西洋)
                  文明  /   未開

                                        ↓

                           スワヒリ / ミジケンダ
                               文明 / 未開

アラブ・スワヒリに対する評価

アラブ・スワヒリ/後背地=文明/未開

「内陸部の野蛮人の群と渡り合うことなどできそうもない...文明のか細い糸」(Stigand 1913 The Land of Zanj)
「スワヒリは内陸部の人々とは文明と知性によってはっきり区別できる」(Eliot)

後背地社会のイメージ


	アラブ・スワヒリ=文明を代表する盟友/ニイカ=文明化するべき未開
         BEAC "best policeman"                                    ↑
         literary culture                                 賃金労働者化
 
                                                                  ↑
                                                       慢性的労働不足

初期植民地行政の課題

採算とれない植民地経営

1902 鉄道の完成 →多大の債務
		  返済のために植民地経済を急速に発展させる必要

       農業製品の輸出(コーヒー、木綿、サイザル、天然ゴム)

       西洋人の入植による開発 / 現地人は賃労働
                ∨
                ∨
              個人の資産家による農園経営(内陸部)
              法人による大規模プランテーション(海岸部)

土地問題と労働問題:ケニア植民地全体

Huxley, E. 「White man's country」
野蛮で怠惰で訓練されていない部族民たち、ヒツジの油やヒマの油や悪臭をはなつ油を塗りたくった奴ら、妖術使いを嗅出し、生きたまま家畜の首を切ってほとばしる血をがぶ飲みし、ヤギの内蔵の模様で雨が左右されるなどと信じている連中、こんな連中の利害を教育を受けたヨーロッパ人の利害よりも尊重せねばならないなどという考えは、現実ばなれしている。

土地問題と労働問題:ケニア海岸部の特殊事情

すすまぬプランテーション再生

       植民地政府のプラン:ヨーロッパ人のプランテーション+アフリカ人労働
			    =換金作物の生産(ゴム、木綿、サイザル)
                         法人企業による入植
                ↓
              より厳しい収益性の追及

       1912 植民地からの輸出
		主としてトウモロコシやその他の作物で換金作物ではない
		21% アフリカ人がもたらした毛皮類
		3% ウガンダの綿花
		3% コーヒー(入植者)
		2% 乳製品(入植者)
	
		1911 栽培されたゴム 54t
		     アフリカ人が集めた野生のゴム 5108t

土地獲得の障害

	アラブ・スワヒリによる土地所有:アラブ・スワヒリはほとんどの土地を自
					分たちの土地であると主張
         1907 奴隷制の完全廃止
			マズルイ・イギリス戦争による耕地の荒廃
		
         土地売買ブーム
	     プランテーション経営者  →  地主、土地取引


		所有権の不明確さ → 土地取引を複雑にする
			所有権の確立(法廷での所有権の証明)→売買が可能

			伝統的システム:土地そのものが関心ではなく、そこで暮
					す人々に対する支配
			↓
			土地そのものに取引価値がある
			投機

              高いコスト


         入植企業はますます高い収益性を要求


「現在のところ、10マイル圏のすべての土地は多かれ少なかれアラブやスワヒリたちによって所有権が主張されている。彼らの多くはちっぽけな土地に法外な値段を要求する。植民者たちがまとまって土地を手にいれるのはきわめて困難な状態なのである。」

コーストの労働問題

       労働不足がプランテーションの再生の最大ネック

	1912 マリンディ周辺に9つのプランテーション、6つは実際には手付かず
	     15000エーカーちゅう 4000エーカーのみが耕地化 主としてゴム

       さらなる労働需要←  モンバサ都市開発(上下水道の整備事業 etc.)
                                     港湾労働 etc.
                              
          ↓
        労賃は東アフリカ全体で最高水準



        もと奴隷→多くは後背地(ミジケンダ)社会に吸収

        アラブ・スワヒリ→農業労働に馴染みなし

        アプ・カントリーの労働力  ×  (←労働需要の競合、気候)
        インドからの労働者調達 ×    (←高すぎる労賃、アフリカ人を「堕落」)

          ↓
        後背地人口(ミジケンダ)の賃労働者化/プランテーション労働・敬遠

ミジケンダ賃労働者化の試み

1903年の hut tax ordinance はほとんど効果なし

ミジケンダは交易等で容易に税金のための現金を確保することができた。


1907年、ミジケンダの人々が賃労働に出るよう長老たちを説得する試み
→失敗

「ディゴには8000の働ける男たちがいるが、うち700人が労働しているだけである。残りは女たちにまつわりついて養ってもらっている。」

ミジケンダと賃労働

なぜ賃労働を敬遠するのか?

←自分たちの経済拡張で手一杯で、若者労働力をまわす余裕はなかった

C・ブラントリーの説明

スワヒリの問題
J・ウィリスによるとミジケンダと賃労働の関係は、より複雑な問題を含んでいる。それはスワヒリというカテゴリーの曖昧さと関係している。

スワヒリとは誰だったのか?

モンバサの港湾労働←都市のスワヒリ人

「確かに人手はたくさんある。しかし彼らは続けて働こうとしない。一日2日働くと、止めてしまう。彼らは恒常雇用を求めない。きっと今のところ彼らは豊かすぎるのだ。働く必要がなければ、働かない。」(Mombasa DC: 1906)

スワヒリとは誰だったのか=
その多くは、パトロン・クライアント関係を通じて町のネットワークに組み込まれた後背地人口
≠ 民族

スワヒリ・イメージの変化

 コントロール不可能な労働集団としてのスワヒリ
    ↓
  手に負えない連中
    ↓
  スワヒリ・イメージの低下

「スワヒリのごろつきども」怠惰で犯罪的な人口

「スワヒリ結婚」不道徳な女性たち

スワヒリの「汚染力」

「後背地の人々が働きたがらないのは、スワヒリの悪影響」

植民地的想像力の二項対立の反転


アラブ・スワヒリ=堕落としての文明/後背地(ミジケンダ)=純粋無垢としての未開
                  ↓                                        ↓
     すでに腐敗した労働者            労働者として開発可能
     ずる賢い土地の収奪者            無知な被収奪者

                             ↓
                    アラブ・スワヒリによる汚染と収奪を防ぐ
                             ↓
                          分離政策

「保護」されるべきミジケンダ

1908 Land Titles Ordinance 海岸部の10マイル幅の土地についての所有権の確定

調査と所有権の証明→所有者には自らの所有権を証明する義務
			  →証明できない土地はイギリス王室に帰属

→実質的には後背地のミジケンダや元奴隷の農民たちが10マイル圏の土地の所有権を主張することを不可能にする。

後背地の「原住民」保護政策

保留地 reserve」の設定
1908 ordinance を適用しない

1910 An Ordinance to Provide for the Protection of the Native Land Areas
アラブ・スワヒリに土地を騙し取られることを防ぐという目的でミジケンダの人々による土地の売買を禁じる

              →二つの土地システム

            	アラブ・スワヒリ 個人所有 / ミジケンダ 共有

人口境界の明確化

都市への新たな流入民(ミジケンダ)は「モンバサのごろつき共の悪しきお手本によってあっという間に汚染されてしまう」

アラブ商人たちの後背地からの追放 1909〜

 アラブ・スワヒリの商人に代ってインド人商人が進出。

              ↓
 しかしインド人商人はパトロンとしては振舞わず、同化も拒む。

              ↓    
       ミジケンダの貧窮化。

1913 アラブ・スワヒリ人の官吏の廃止

1913 no Arab official is to have dealings with the concrete tribes such as Digo, Duruma, etc.

イギリス人行政官を配置

土着の権力構造へのてこ入れ。(実質的には「創設」)

さらなる分離政策

1914 10マイル圏からのミジケンダの追放の試み
「スワヒリやアラブが、あまりにもずる賢いということで後背地から閉め出されたように、ミジケンダは『イスラム教徒』のあいだで暮すにはあまりにも『野生的』であるという理由で追放された」


実効なし

参考文献

Brantley, C., 1981, The Giriama and Colonial Resistance in Kenya, 1800-1920. Berkeley: University of California Press

Salim, A.I., 1973, Swahili-Speaking Peoples of Kenya's Coast: 1895-1965. Nairobi: East African Publishing House.

Willis, J., 1993, Mombasa, The Swahili and the making of the Mijikenda. Oxford: Clarendon Press