講義メモと参考文献


第六回講義

後背地の歴史:スワヒリ海岸とミジケンダ

今回の講義の目的

イギリスの東アフリカ植民地に先立つケニア海岸後背地の状況を把握する

ミジケンダ社会の概要

人口

Group Population % of Total
Kikuyu 4,455,865 20.78
Luhya 3,083,273 14.38
Luo 2,653,932 12.38
Kalenjin 2,458,123 11.46
Kamba 2,448,302 11.42
Kisii 1,318,409 6.15
Meru 1,087,778 5.07
Mijikenda 1,007,371 4.70
....... ....... .......
Kenyan Arab 33,714 0.16
....... ....... .......
Swahili 13,920 0.06
....... ....... .......
Source: 1989 Census, as reported in the Kenya Factbook,
15th Edition, 1997-1998. Kul Bhushan, Newspread International








ミジケンダという呼称

Giriama, Digo, Rabai, Chonyi, Jibana, Ribe, Kambe, Kauma, Duruma

スワヒリ人と同じく Shungwaya 起源の伝承をもつ
言語もスワヒリと同じサバキ・グループ

宗教

19世紀以前:非ムスリム
(現在 ディゴ:91%ムスリム、ドゥルマ:34%クリスチャン etc.)

社会組織

拡大家族が居住する大きな屋敷(mudzi / midzi(pl))が基本単位
カヤ(kaya)と呼ばれる要塞村
部族全体を統治するリーダーをもたず、長老政治

経済

バントゥ系の雑穀類中心の農耕民
年間2回の雨期(大雨期 mwaka と小雨期 vuri)
頻繁な飢饉、極端な豊作/飢饉→雨に依存

今日のミジケンダ(ドゥルマ)社会の姿
スライド紹介

ミジケンダの歴史 〜19世紀

16c ポルトガル人、後背地の住民をモズングロとして言及
流動的な同盟関係
1610 モンバサのスルタンを破産に追い込む
17c ラバイ、チョーニなどの個々の集団の名称
18c〜
Wanyika の呼称が定着

スワヒリとミジケンダ

二つのシステム

モンバサ・スワヒリ/後背地(ミジケンダ)

  1. 政治的同盟/依存関係
    流動的な同盟関係
    
    	モンバサ内部の政治闘争で敗れた側が一時的に亡命
    	特定の党派を軍事的に支援
    
    	Busaidi/Mazurui 抗争において Mazurui を支援
    
    	        1729 ポルトガルはモンバサから永久に駆逐
    		マズルイ(Mazrui)統治
    		オマーンのスルタンにより governor として赴任
    
    		オマーンでの王朝交代(1740s Yaarubi→Busaidi)にともない
    		事実上の独立
    		ブサイディ←→マズルイ抗争
    			1837 にブサイディに敗北。その後はMbaruk bin Rashid
    			が数回にわたる蜂起。ミジケンダのサポート 
    
    
  2. 交易関係
    象牙、コーパルなど ←→布、ビーズ、鉄器
    穀物の地域間交易網 ケニア後背地/モンバサ/ペンバ島
    
    	飢饉の際の食糧(穀物)  モンバサ→後背地
    
    	他の時期		後背地→モンバサ  食糧、象牙 etc.
    
    	負債による pawn 関係
    			屋敷の成員を借金の抵当として一定期間差し出す
    			モンバサの「奴隷」の謎
    
    
  3. パトロン−クライアント関係を通じて人の移動
    代替的ネットワーク網としてのスワヒリ/ミジケンダ

1837 Busaidi 支配以降の変化→(1)(2)の重要性減少

Busaidi は独自の軍事力→後背地の軍事力に依存しない
モンバサとの関係は消滅/タカウングのマズルイとのあいだには持続

奴隷によるプランテーション経営 ペンバのクローブ農園化→穀物供給地としての役割低下

二つのシステム(まとめ)

中央集権的 自律的、無頭的
ムスリム 非ムスリム
商業 農耕

二つのシステム≠二つの民族

人的混淆
二つのオプション(Willis)

二つのシステムの相互嵌入

ミジケンダの興隆

ミジケンダと後背地の他部族との関係

1815 〜 1875 マサイ内戦

Kwavi グループ ←→ 他のマサイ・グループ
1840以降、モンバサの西部の内陸部はマサイの脅威の下に
マサイの主要な攻撃対象 Oromo
1860頃 サバキ河沿いでマサイはオロモを撃破する
さらにオロモは北からのソマリからの攻撃にも晒され撤退

ミジケンダの拡大

1890s 牛疫 + 天然痘

マサイ、オロモは特に大打撃を受ける

脅威の消失 → ミジケンダの農業生産の拡大


ミジケンダ経済の空前の発展

プランテーション衰退後の輸出穀物のほとんどを供給

参考文献

Brantley, C., 1981, The Giriama and Colonial Resistance in Kenya, 1800-1920. Berkeley: University of California Press

Spear, T.T., 1978, The Kaya Complex: The history of the Mijikenda Peoples to 1900. Nairobi: Kenya Literature Bureau.

Willis, J., 1993, Mombasa, The Swahili, and the making of the Mijikenda. Oxford: Clarendon Press.

浜本 まり子 1991 「ドゥルマ族の起源伝承」『伝説が生れるとき』波平恵美子編 pp.59-95.福武書店