講義メモと参考文献


A・J・ヴェトレーセン『邪悪と人為:集合的邪悪行為を理解すること』(3):
第4章「集合的悪の論理と実践:ボスニアにおける『民族浄化』」
Chapter 4 The logic and practice of collective evil: 'ethnic cleansing' in Bosnia

ここではバウマンの視座からは説明の困難な「近接性においてはびこる集合的悪」の問題を検証する。.... 「民族浄化」のイデオロギーと実践は悪についてのわれわれの理解にどのような光を投げかけてくれるだろうか。(p.146)

私達が心に留めておかねばならないのは、たとえ集合的な大量殺戮であっても、それらは個々の個人達によって遂行された行為から出来上がっているということである。しかし集合的悪に参加するこれらの個々人は、しばしば自分が行っている行為について、個々の人間として道徳的にも心理的にも個人的に責任があるとは考えていない。この集合的悪の成り立ちの条件とも言える、個人的な人為の抑圧あるいは括弧入れが、どのように起こるのかも考察する必要がある。(p.146)

悪は文化的な真空では生じない。故意による悪は人間の悪意が、それを文化的に解消するための方策の失敗が結びついたものと理解されねばならない。あるいは、それを文化的にポジティヴに解消するための諸方策を破綻させる条件を故意に、かつ体系的に作り出すことと結びついたものといった方が、より的を射ている。これはトップダウンに組織された集合的悪の事例においてとりわけ真実であり、ボスニアにおけるジェノサイドもそうした例である。(p.147)

旧ユーゴスラビアでの「民族浄化」へのアプローチ

バルカン地域が抱えてきた特殊事情、長い歴史の中で積み重ねられてきた民族集団相互の敵対と憎悪の結果としてそれを説明する、最もポピュラーな見解は、16世紀に遡る長い反ユダヤ主義の結果としてホロコーストを説明する通俗の議論同様、退けねばならない。(pp.148-9:要約)

セルビア科学芸術アカデミーによる1986年「覚書」
セルビア科学芸術アカデミーの覚書(wikipedia)

アカデミーを構成する著名な知識人たちによるこの覚書の抜粋のリークはユーゴスラビア全体における「政治的地震」としてショックとともに受け止められた。
それは1974年憲法下でのセルビアの民族的危機を訴え、それを解消することこそ自分たちの世代の仕事であると説いていた。
1974年憲法ではユーゴスラビアを名目自治的な8つの地域にわけたが、それはユーゴ国家の統一を弱め、とりわけセルビア人の地域を分断する点でセルビア人に対して大きなダメージをもたらしたと、それは主張していた。「セルビア人は自分たち自身の国をもつ権利を拒まれている。セルビア人のかなりの部分が他の共和国に暮らしており、そこでは彼らは他の少数民族のように、自分たち自身の言語やアルファベットを用い、政治的文化的にまとまって自分たちの民族の独自の文化を発展させる権利をもっていない。彼らはコソボにいるセルビア人たちのように、物理的、道徳的心理的恐怖の支配下にあり、そこから最終的に退去する用意ができているように見える。」と分析し、コソボのアルバニア人達による「民族的に浄化された」民族的に均質なコソボ作りの企みに繰り返し触れている。
このようにセルビア人はあらゆるところで敵対的な反セルビア環境によって脅かされており、....解決策は大セルビアと呼ばれるような、セルビア人主権国家の形での領土的統一だとそれは主張していた。(pp.149-150)

これは、ドイツ人についての危機感を煽ったナチスの言説と構造は同じである。人種主義的か、ナショナリズムか、エスニズムかの違いはマイナー・レベルの違いで、ジェノサイド的な狙いをもったプロジェクトである点は共通している。 「20世紀におけるジェノサイドのすべての事例で、自集団がとる行動は、典型的に「自己防衛」という姿をとる。相手集団に対する攻撃は、その宣伝のなかでは、常にターゲット集団によってかつてなされた、あるいは今やなされんとしている攻撃に対する応答である。自分たちにこそ正義があるというのが、ジェノサイド実行者たちに特徴的な精神態度である。(pp.150-151)

ナチスとセルビアのプロパガンダに見られる共通性

naziandserbiapropaganda (p.150)



狂信主義特有の「全か無か」、「我々か奴らか」という極端な二者択一のシナリオ (pp.151-2)

地域の特殊性のせいにするには、ジェノサイドのロジックにはあまりにも共通性が大きい。

敵意の模倣性
ボスニアにおける「民族浄化」においては、ジェノサイドの非難が、ジェノサイドを開始するシグナルになった。1992年のセルビア勢力による大量殺戮の皮切りとなったのは、クロアチア人とムスリム人勢力がセルビア人たちの殲滅を開始したというローカルニュースだった。(pp.151-2)

現在の敵対行為の担い手が自らを最初の犠牲者として提示し、現在の犠牲者を最初の敵対行為の担い手として提示するロジック
その都度、後付的に相手の犯した行為に対する報復であるという理屈が出てくる。 ボスニアでのセルビア人の行為の正当化は、最初は1991年のクロアチア戦争での 、あるいは第二次世界大戦におけるクロアチア人の残虐行為をもちだすことでな された。クロアチア人はあまり関係なく、ターゲットがムスリムたちで、彼らは 第二次世界大戦のパルチザン闘争で共闘した人々だとと指摘されると、14世紀 以来のオスマン帝国のトルコ人たちの暴虐がもちだされ、ボスニアのムスリムは トルコ人じゃなく同じスラブ人の土着の人々だと指摘されると、ボスニアの ムスリムは原理主義者たちであり、自分たちは原理主義勢力から西側を守っている のだと議論をシフトさせ、ボスニアのムスリムが実は伝統的に非原理主義的である と指摘されると、最終的には、これは単なる内戦であり、双方に罪があるのだから 他の諸国は介入するなという。(Sells 1996:66f cited in Vetlesen op.cit.:152)

これを前にした西洋諸国の見方
遠い昔からの民族集団間の憎悪の産物としてとらえる
ビル・クリントン「これらの人々が互いに殺し合うのに飽きるまでは、これからも悪いことが起こり続けるだろう bad things will continue to happen」(pp.152-3)

ジェノサイドとは何か

ジェノサイドのロジックにおけるもっとも重要な点は、そこでは集合的アイデンティティがすべてで、個人のアイデンティティは無である(collective identity counts for everything and individual identity for nothing)という点である。
ジェノサイドとは、この一般的な属性が一つのイデオロギーの形となり、さらには実践へと転じたものである。(p.155)

ジェノサイドの定義

Raphael Lemkin の造語

  genos = race, tribe(ギリシャ語)

  cide = killing(ラテン語)

実際の殺戮のみでなく、むしろ「文化の抹殺」、特定の集団から彼らのアイデンティティである文化的痕跡をはぎとってしまうことを指していた(p.156)。



ジェノサイドは集合的行為である。それは特定の組織された集合体、つまり集団によって企まれ、計画され、組織され実行される。ジェノサイドのターゲットとされるのは別の集団である。典型的には、実行者集団は自らを、その個々のメンバーに共通するアイデンティティ、それが国民であれ、人種であれ、エスニシティであれ、宗教であれ、性別であれ、によって定義する。ターゲット集団の方も、実行者集団によって同様な基準(集合的でしばしば本質化された)によって定義される。...民族浄化においては脅かされているとされたエスニック・アイデンティティの純粋性が、イデオロギーの焦点をなしていた。(pp.158-9)

ボスニア紛争においては、アイデンティティ構築の焦点は人種からエスニシティへ、 相対的に「固い」生物学の領域から相対的に「ソフトな」文化へとシフトした。
...
民族浄化は、個人のであれ集団のであれ、アイデンティティが深く実存的問題であるような社会・歴史的背景に対するアイデンティティの政治である。(p.159)

個人化と集団主義との爆発的弁証法

今日優勢な精神的態度ではアイデンティティとは、なんの所与もないところから、つまり、なんらかの同時に固定され実体的であるようなものなしに、構築されねばならない何かである。アイデンティティに関する全ては、その「構築 building」に、永遠につづき完結することのない「構築 construction」に関係している。....
もちろんこうした昨今流行のアイデンティティ理解は、ギデンズ(Anthony Giddens)やベック(Ulrich Beck)が個人化(individualization)という概念のもとで詳しく展開したように、当初は現代西洋の諸個人に対して妥当するものである。...
しかしそれはこうした個人が、エスニック・グループという集団のメンバーとしてのアイデンティティをどのように解釈し評価するかを考える上で重要である。(p.159-160)

前近代的な社会と近代的な(あるいはポストモダンな)社会の主な違いが、派生的な(所与の)アイデンティティと選択的なアイデンティティの違いにあることは広く知られている。一言で言えば、近代個人のアイデンティティは選択の対象となっている。....
こうしたアイデンティティの選択性は、その個人化individualizationを意味する。アイデンティティの問題は、伝統や歴史や共同性の諸力が解決するものではなく、実存主義風に、一人の個人の方にのしかかる課題あるいは重荷となる。産業社会においては階級や家族、性役割などなどを介して個人の上に行使される社会的コントロールは急速に弱まりつつある。多くの点で、社会の成員個人を「解放liberating」すること、社会的コントロールの伝統的な諸形態の拘束が弱まったことは、社会変化の前で個々人が次第に脆弱化していくことを意味する。安定した家族、安定した近隣、安定した職場が提供していた確実性を奪われ、たった一人で好きなように自分の人生を切り開く「自由」を与えられた個人は、実際には、彼が圧倒的に依存しているマクロな社会的諸力によってますます情け容赦なく翻弄される存在となる。今日の脱伝統化した生活形式においては、個人と社会とのあいだに新たな種類の直接性が出現しつつある。社会的な危機が個人的な危機として現れ経験されるという意味で、それは危機と病理の直接性である。(p.162)

見えにくくなった危機の社会的性格
失業問題...社会が抱えている病巣、問題ではなく、一人ひとりがそれぞれに対処すべき、個々人にとっての問題として経験される。....
同じ問題を抱える人は、ともに問題に立ち向かうべき「同志」ではなく、むしろ単なる競争相手になってしまう。....
個人は global process のもたらした結果に、localなそして究極的には個人的私的な手段で立ち向かおうとする。しかし個々人の私的存在は、ますます個人の力を超えた条件やプロセスに依存したものになっている。(pp.162-3)

システムに問題があるのに、それは個人の問題に変形されてしまう。自分に至らぬところがあるせいだと。(要約)

個人主義と集団主義、自由選択と本質主義のあいだには一つの弁証法が作動している。(p.164)

個人主義と集団主義の弁証法



近代的(ポスト・モダンな)個人の不満に対する治療を提供することを約束するイデオロギーための肥沃な土壌は、最も先進的な西洋諸社会において創造される。(p.165)

セキュリタイゼーションの事例としての民族浄化

安全保障化 securitization(wikipedia)

セキュリティ問題化は言語行為であり、ある問題をセキュリティ問題だと宣言し、それが受け入れられることによって、あらゆる問題解決の手段が、一般の民主的討論や科学的研究・批判を廃して非常手段として認められてしまう。

いかに特定の対象が脅威に晒されていると提示され、それを防衛するためにいかに非常な手段が正当化されるか(p.167)

セキュリティは自己言及的な実践。なにかをセキュリティ問題だとラベル貼りすることによって、それはセキュリティ問題となる。(p.168)

ジジェクによるとイデオロギーは個々人を存在につなぎ留め、アイデンティティを構築するものであり、彼らの本質を、つまり彼らの「何者か」「どこから来たのか」、「何をなす者か」「なぜするのか」を、定義し確認する。イデオロギーは、欲望の対象を構築するシナリオという意味で、幻想を刺激する。(p.168)。

個々人は、自分たちが欠いているもの、自分がそうではないところのもの、そうなりたいと欲望しているもの、を対象のうえに投影し、それらを手に入れる(再び手に入れる)という幻想を作り上げる。
....
イデオロギーはセキュリティ問題化を通して作用する。それは安全/危険(security / insecurity)の区別を巡り、それを政治的動員の強力な源泉として利用する。つまり価値ある貴重な対象を守り、それを脅かすとされる者と戦うという並行した狙いをもった動員の。(p.169)

個人的悪と集合的悪の相違

セキュリティ問題化という手法とスケープゴート化による罪の配置、つまり「清浄さ」に対する差し迫った危険とされるものと戦うべく身代わりの犠牲として選び出すという手法を用いる、ジェノサイド的イデオロギーの恐るべき動員力は、このイデオロギーが個人に、そして社会的変化や動乱の時代におけるアイデンティティと帰属と生き残りをめぐる彼の憂慮や危機感に、直接語りかける事ができるというその能力によっていると理解するべきである。(pp.170-1)

個人の悪と集団の悪

   個人による悪の行為
       近接性
   
       私的理由付け

       ターゲットは彼と個人的な関係をもつ具体的な個人

       行為の理由は様々であるし、それに対する正当化の形もさまざま

       
   集合的な悪の行為
       集団の成員としての行為(集団のために)
   
       仲間と共有する理由(彼らが自分たちに敵対して何をなしたか、何を
       なさんとしているか)

       ターゲットは特定の集団を代表する一個人

       行為者は、犠牲者との関係よりも、彼の仲間に対する関係に第一に重きを
       おいた仕方で行動する。彼の行動に影響をおよぼすのは、仲間との関係で
       あり、犠牲者が彼についてどう思うかはどうでもよいことである。

       道徳性は、もっぱら集団内的な現象となる。(p.171-174)

       集団は、個々人がもつ実存的不安と同時に、他集団との関係における自集団
       のもつ不安の双方の不安に対する個人的防衛を提供する。(p.173)



ジェノサイドの論理と行為主体の集団化

ジェノサイドは決して自然発生的に、自発的には生じない。それはむしろ応答的に何かに対する反応として生じる。ほとんどの場合、強く直截的な模倣という意味で応答的であるとして、自らを自覚的に提示する。....
実行者集団は、ターゲット集団が自分たちの集団に対して(遠いあるいは最近の)過去において行った、あるいはまさに行おうとしている行為を自分たちはやっているのだと主張する。....それは、客観的で異論の余地のないと思われている理由で、殺されても仕方ない者たちを、狩りだし殺害することに対する許可として持ちだされる。(p.175)

セルビアのイデオローグたちが1389年のコソボ・ポリゼにおけるオスマン帝国との戦闘を自分たちの自選「トラウマ」として取り上げて以来、彼ら(ボスニアのムスリム)は、彼らの祖先が約600年前に行ったとされるこの行為で、有罪とされるのだ。(p.175)

いったんこのように集団化されると、個人は自分の集団が行い、あるいは行った、あるいはこれから行おうとしているすべてのことに責任を負うことが強要される。(p.176)

イデオロギー的に考えぬかれ、集合的に立ち上げられた悪は、自らを悪としてではなく善として、不道徳的としてではなく道徳的として認知する。(p.176)

ハバーマスの引用
「悪は純粋な攻撃行動そのものではなく、実行者が正当であるとみなす攻撃行動である。それゆえ、悪は善の裏側なのだ。」

ジャーナリストDavid Rieffがインタビューしたセルビア民兵
「彼をかき立てたのは恐れであり、彼が自らを誇らしく思えるのは、彼がなしてきたこと全ては自己防衛だったという信念のおかげだった。」(p.177)

攻撃者/犠牲者関係の内部でのこの逆転は、いたるところをあまねく満たす恐怖と不確実さの空気が出来上がっている時に、心理学的に最も有効である。(p.177)

代理の犠牲に関するジラールの理論

(省略)

民族浄化としてのジェノサイド・デザイン

RAM PLAN
1991年、ブラゴイェ・アジッチ将軍の秘密会議で立案
「ムスリム共同体のモラル、意志、好戦的性格に打撃を与えるためには、その宗教的・社会的構造の最も脆弱なところを狙って、行動せねばならない。つまり女性、特に青年層、および子供たちである。彼らに対する決定的な介入によって、共同体に混乱を広げ、恐れとパニックを引き起こし、戦争遂行の中で、彼らの領土からの退去を可能にするだろう。この場合、それに加えてパニックがさらに増大するように、我々の組織的で断固とした行動についての広範なプロパガンダを行う。」(Allen 1996:57 cited in Vetlesen p.189)

大量レイプも、かなり早い段階から、この民族浄化の重要で、細部まで考え抜かれた要素の一つであった。
「1680人の12歳から60歳までのムスリムの女性が、我々の領土から退去させられた人々のためのセンターに集められている。これらの女性たちの多く、とりわけ15歳から30歳までは妊娠している。ケレビッチおよびゲリッチによる試算では、彼女らに対する心理的効果は強く、それゆえ今後も(ジェノサイド・レイプを)継続するべきである。」(Allen 1996:59f cited in Vetlesen p.189)

大量レイプは単に偶然の副産物ではなく、当初よりプログラムとしてシステマティックに組み込まれていたもので、その目的はその犠牲者たちの苦しみを長引かせることでもあった。犠牲者たちの強要された妊娠が、確実に完成にいたるよう配慮されていた。レイプされた女性は、イデオロギーによりセルビア人の息子や娘とされる子供を出産するよう強要されていたのである。これは犠牲者たちには最高の辱めであり、民族浄化の一つの手段でもあった。(pp.189-190)

近接性の問題
バウマンの事例とは対照的に、ボスニアで起きたジェノサイドはけっしてハイテクではなかった。効率的に大量殺戮を可能にする技術的手段や、官僚組織に代表される科学的管理も欠いていた。....
物理的・心理的両方の意味での近接性がその特徴であった。(p.190)

民族浄化は遠隔での殺害ではないし、会ったことも知り合いでもない人間を殺害することでもない。むしろそれは、隣人や同僚、友人や恋人、家族の一員を殺害することである。一体どのようにしてそんなことが可能であろうか。このような強度の対人的暴力はどこからくるのだろうか。この強度は、実行者と犠牲者の近接性にも関わらずに可能であるというのだろうか、それとも近接しているがゆえにのことなのだろうか。おそらく後者なのだ。そしてこのことがまさに衝撃的で、邪悪で、説明されるべきことなのである。(p.190)

何年間にもわたって、あるいは生涯にわたって、あらゆる社会学的な意味で自分と親密な関係にあった個々人が、突如、その人格を剥ぎ取られ、自分自身の集団に致命的な脅威をもたらす集団を代表する単なる一人として見えてくる、などということが可能なのだろうか。(p.191)

一人のセルビア人が、突然かつてのクラスメートのアミラや義理の兄弟ラミスではなく、そこに一人のムスリムを見るようになるなどということが、それまで長く認めていた人間としての個体性やユニークさがすべて拭い取られ、最も粗雑なステレオタイプで上書きされてしまうなどということが、信じられるだろうか(p.191)

共犯関係を広げる
セルビア人とムスリムの混住が進んでいるボスニアの村々では、民兵たちは殺害に加担する決断をしていないセルビア人の家に行き、彼を近所のムスリムの家まで連行し、そこにいるムスリムの男を殺害するように命じる。そのセルビア人が殺害に同意しなければ、彼は即座に殺される。こうして民兵組織は村の三分の一のセルビア人を殺害するまでもなく、すべてのセルビア人の同意を取り付けることができた。(p.192)

こうして「共犯関係」を広げていくことは、民族浄化の意識されたゴールでもあり、それはそこで用いられる手法の不可欠の一部となっていた。(p.192)

奪われた、あるいは所有者を失い見捨てられた品物の分配、山分けに預かるという形でもこの共犯関係は強められた。...
その目に見える結果は、それにより個々の成員がその共同体からの出口を失ってしまうということだ。最初の犯罪的行為によって生み出されたその共同体は実行者たちにとっての唯一の避難所でありつづけることになる。(p.195)

ジェノサイド・レイプ:その特性と機能

個人的に感じた性的欲望によってなされたものではなく、これらのレイプの事例を決定づけているのは権力という目標である。犠牲者たちを辱め、トラウマを与え、服属させ支配する目的でレイプは行われ、多くのケースでは最終的に殺してしまう前の心理的・身体的拷問の一部として行われていた。...
犠牲者の多くは自宅で、あるいは家の前で、できるだけ多くの親族や村人たちを集めて彼らの面前でレイプされた。
それらは行き当たりばったりのものではなく、前もって計画され、ジェノサイド作戦の一環として推奨され、あるいは命じられた行為だった。それは女性だけでなく男性もターゲットにし、さらにはターゲットどうしで(例えば老人が自分の孫娘をレイプするよう強要されるケースのように)それを行うよう強要された。...
これらは消しようのない恥辱を与え、その土地にもはや居れないように、そこからの退去を不可避にするようにとの目的でなされていた。(pp.196-198)

レイプは、一瞬にして相手に深く、耐え難いほどに治癒に時間のかかる傷を負わせる、人間に対する攻撃形態である。...
ボスニアにおけるジェノサイド・レイプは、容易に見過ごされがちだが、不思議なもう一つの特徴がある。それは大量レイプの政策が犠牲者の妊娠を主要な目的としていたという事実である。 (女性たちはセルビア人によって妊娠がはっきりするまで繰り返しレイプされ、堕胎が不可能なまで胎児が成長した後に解放された)

殲滅するべき民族の成員を増加させるというのは、一見矛盾しているようであるが、遺伝学的な知識は無視して、父系イデオロギー的にこれはセルビア人の子孫を増やす行為であった。同時にこれは女性たちからエスニシティを剥ぎとってしまうことでもあった。(p.199-201) 彼女らにとって、自分が産んだ子供は「敵」であり、それを殺そうとすら思う。なぜならその子は、彼女の町を破壊し、彼女を傷つけ、拷問し、不具にし、彼女が愛した人々の喉を掻き切った者の一部分なのである。(p.202)

レイプ、恥、人為:近接性の意味するもの

近接性の意味 バウマン/ヴェトレーセン

   バウマン理論
     実行者と犠牲者の近接性
     実行者が犠牲者に直接手を下す関係
        ↓
     共感性の喚起

     感情的に励起した状況
           ↓
      道徳的抑制

 
    ヴェトレーセンの議論
     実行者と犠牲者の近接性
     実行者が犠牲者に直接手を下す関係
        ↓
     感情的に励起した(emotionally charged)状況
           ↓
     犯行の感情的衝撃の大きさ
           ↓
     人は後戻りできない一線を超えてしまう
    
     壊れた関係性は修復不可能となる
           ↓
     凶行の相手に対する完全な無関心
          (レイプ実行者たちはその犠牲者たちに対して詳細な
            認識がない)
    
     犠牲者の非人格化 depersonalization of victims
           ↓
        さらなる残虐性
(p.206)



ジェノサイド後も関係回復は不可能
実行者集団とターゲット集団は、もはや以前のようには二度と一緒に隣人として暮らすことはできないだろう。(p.207)

実行者と犠牲者が、親族的にあるいは友人として、同郷として、過去を共有するもの同志として、近ければ近いほど、犯行が両者の関係におよぼす心理学的、感情的衝撃はより深く、また長続きするものになる。(p.207)

恥と罪の意識
大量レイプと大量殺人の罪で獄中にいる22歳のヘラクの証言が示しているように、実行者たちは自分の犯行を恥じることもないし、罪の意識もない。自分がしたことが正しいことだった、あるいはせいぜい避けられないことだったと感じている。そしてその多くは(PTSDに苦しんでいる例外もいるが)、何があったのかを思い出させるなんの痕跡もなく、新生活にそして新しいプロジェクトに勤しんでいる。(pp.208-209要約)

恥というのは自分がしたことを他人に隠したいという思いである。しかし彼らの行動は秘密裏にではなく、おおっぴらに行われていた。むしろそれは故意に多くの観客の前に見せつけるように上演された出来事であった。(p.208)

自分がしたことを隠したい他人とは、誰でもよい他者一般ではない。共同性をともにする自分の仲間であるような他人で、彼らの目に隠したい何かについて人は恥じる。敵か味方かの二分法が支配する状況では、共同性(仲間)は非常にシビアに規定されている。彼の今や唯一の避難場所である集団所属をともにする仲間の視線のみが、彼の行動の基準になる。

第101大隊についてのBrowningの研究
殺害への加担を拒んだ警官たちは、自分たちの「弱さ」ゆえにできないと訴えることで許され、別の部署へ配属された。
このようにすることで、彼の拒否は仲間に対する非難とならずにすんだ。それは「強い」仲間たちに対する、その「強さ」を肯定するしぐさであった。そして自分の行為に対して恥を感じていたのは、殺戮の実行者たちではなく、むしろそれに加担することを拒んだ者たちだった。(pp.209-210)

ブローニングのこの分析は民族浄化のコンテクストでも示唆的である。なぜならそれは、実行者たちの集団の内部に恥が実際に出現するとすれば、殺人を行った者によってではなく、殺人を拒んだ人々によって経験された感情としてであることを示しているからである。たとえ、報告されているように、仲間の警官たちが彼らの拒絶を理解を持って眺めてくれていたとしても、当の男たちは自分自身を許すことに大きな困難を感じていた。....むしろ彼らは、道徳的にも心理的にも自分たちが、「弱すぎる」から参加できないと考えていた。彼らは自分た期待にそえないと感じ、....恥じていたのである。(p.210)

参考文献

Vetlesen, Arne Johan, 2005, Evil and Human Agency: Understanding Collective Evildoing, Cambridge University Press.

Rieff, David 1995, Slaughterhouse: Bosnia and the Failure of the West, A Touchstone Book.

Allen, Beverly, 1996, Rape Warfare: The Hidden Genocide in Bosnia Herzegovina and Croatia. Minnesota University Press. (ベヴェリー アレン, 2001, 『ユーゴスラヴィア 民族浄化のためのレイプ』(鳥居千代香訳)柘植書房新社)