講義メモと参考文献


A・J・ヴェトレーセン『邪悪と人為:集合的邪悪行為を理解すること』(2):第2章、第3章

ヴェトレーセン『邪悪と人為』より第2章「悪の『凡庸性』と良心をめぐるハンナ・アーレント」

この章については講義では詳しく扱いません。興味のある方は、引用元にあたってみてください。

ヴェトレーセンの主題は、常軌を逸した邪悪が、なにかあからさまに悪を欲望する人格であることが顕著な人物によってというよりは、どちらかというと普通であることを特徴とする人々によって犯されてしまうというパラドックス(paradoc that etraordinarily evil acts may be committed by subjects conspicuous more by their ordinariness than by some detectable 'evil-desiring' personarity(p.53))である。

アーレントと悪の「凡庸性」(banality of evil)

イェルサレムの法廷でのアイヒマンを見ていてアーレントは、その下手人における目に見える薄っぺらさにショックを受ける。それは彼の行った行為における比類ない邪悪さを、より深いレベルのルーツや動機に関係つけることを不可能にしてしまう。


その行いは怪物的だった。だがそれを行った者は...まったく普通の、ありきたりな、悪魔的でもなければ怪物的でもない男だった。
The deeds were monstrous, but the doer....was quite ordinary, commonplace, and neither demonic nor monstrous(p.53)

彼女は彼のなかにまったくネガティヴな何かを見る。それは愚かさというよりも思考の欠如なのだ。ヴェトレーセンによると、それは思考の欠如というよりも、共感性の欠如と感受性のなさといったほうが良い。

集合的悪はシステムの生み出す悪か?

『全体主義の起源』においてアーレントは、根源的な悪は人間という主体を余計なものにしてしまうシステムによって成就される悪であると述べる。その例がホロコーストである。
そこで犯された許しがたい絶対的な悪は、利己心や貪欲、強欲、怒りや権力欲、臆病といった動機によっては理解できない。(p.98)

アーレントのこうした見方は、悪が利己心から生まれるという従来の『悪』観念と対立する。
たとえばカント「人間になしうる最も邪悪なことがらは、利己心という悪徳から生じる」と述べている。

これに対し、アーレントは悪を利己心から切り離すことに成功している。しかしアーレントはアイヒマンをあまりにも一元的に捉えすぎている、とヴェトレーセンは言う。アイヒマンは組織の命令に忠実な職業人であると同時に、熱心な反ユダヤ主義者であった。システムの中の義務としての実践は、犠牲者に対する反感とともにあった。

ヴェトレーセンは集合的な悪を、それを行う者から切り離して、完全にシステムのせいにしてしまうことはできないと主張する。
collective evil never becoming completely systemic(p.100)

ヴェトレーセン『邪悪と人為』第3章「他者を傷つけることを望む心理=論理:Fred Alford の悪についての研究の評価」

まったく違う角度からの悪についての研究

C.F. Alfordの悪の理論

対面的で多かれ少なかれ「私的」なコンテキストでなされる邪悪行為

感情的なもので満ちた、個人的な問題事案としての悪(being a personal and emotionally charged affair)(p.104)

ヴェトレーセンは、Alfordが個人的な邪悪 individual evil と集団的な邪悪 collective evilを結びつける一歩を踏み出していると評価する。
彼の研究は、「いかに集団的な邪悪(トップダウンに組織され、権威 --個人にせよ、制度あるいは国家にせよ-- によって是認された)が、個々人のうちにある動機、人が生きる深い実存的関心と状況に共鳴する感覚のなかにある動機を、(バウマンのいうように)バイパスすることによってではなく、それを利用することによって遂行されるのか(pp.105-6)」を明らかにしてくれる。

問題設定

邪悪とは、善であることから堕落する(falling away from the good)こと善をなすことに失敗すること(failing to do what is good)、ではなく、なにか首尾よく目標を遂行すること(successful caryying out of some purpose on the part of the agent)、つまり他の誰かに苦痛と苦しみを意図的に与えること(intention to inflict pain and suffering on someone else)、一種のサディズムである。

アルフォードはミルグラム実験を再考し、実験者による先生役の被験者に対する「命令」が、実は他人を傷つけることに対する「許可」であり、まさにこれこそ先生役の被験者たちが欲し、待ち望んでいたものなのではないかと示唆する。

集合的悪(collective evil)とは、いかに個々人のサディズムに首尾よくこうしたゴーサインを出すかという問題なのである。(pp.105-106)

サディズム

アルフォードは、個人に内発的な実存的なものとして悪をとらえる。

サディズムを単なる攻撃性と区別するのは、支配と破壊を性的なものにするという点ではなく、サディストが彼の犠牲者に対して強度の同一化を行うという点である。....

サディズムは、脆弱性の感覚と恐怖を他者に転移することで、それらからの解放を目指すことである。...換言すれば、犠牲者としての経験を他人に味合わせることによって、その経験を制御するという喜びである。(p.106)

それは自己の運命からの、傷つく危険に晒されている自己の恐怖や不安からの、逃走の企てであり、他人をターゲットにしてそれに苦しみを味合わせることでそれを成し遂げようとする。つまり、自分がいちばん経験したくないこと、恐れていることを、他人に対してすることなのである。.... (それゆえ)悪とは経験的なものであり、単に思索し、ジャッジし、解決する対象ではなく、人間存在に必須の、われわれの世界内存在の経験の一つの次元として理解されねばならない。(pp.108-9)

ここで大切なのは、....このように心理学的に理解された悪の「対象物」は、別の人間存在であるし、そうでなければならないという点である。...犠牲者を非人間化すること(dehumanization)が悪を行う上での必要条件だとする影響力のある諸理論が主張しているところとは異なり、....アルフォードの悪の観念にとっての実存的な次元は、(サディズムが)求める悪の行為の犠牲者があらゆる実存的、経験的側面において完全に人間として認めらていることこそが、悪の行為のターゲットとしてのふさわしさの印となることを主張している。(pp.109-110)

(しかしこのサディズムのプロジェクトは)常に失敗するしかない。なぜなら、それは欺瞞であるから。(p.110)

実存的痛みに取り組む身体的で具体的な様式(それを他者の上に転移させることで、それを取り除く)が、多くの悪をなす行為の背後にあるというのであれば....そうした痛みに別の仕方でいかに対処できるかを知ることは重要である。....
(囚人とのインタビューの中で、囚人たちの象徴的貧弱さ、言葉や比喩やイメージによって悪についてコミュニケートする能力の乏しさに気づいたアルフォードは)彼の中心となる「悪を想像し、それに象徴形式を与える能力は、悪を実践することの代替物である」というテーゼに至る。(pp.113-4)

アルフォードによると、悪の回避は「恐怖 dread を象徴化する能力にかかっている」。それは「恐怖を抑えこむために他者の身体や精神を利用する」ことなしに、それを表現する「形」を見出すことを前提とする。ここに「文化」が関係する。文化は、特定の社会がその個々の成員に、さもなければ形なく制御不能で破壊的でありつづける脅威に「形をあたえる」のに使える無数の方法へのアクセスを提供する象徴資源の総体である。(p.120)

心理的な防衛機構としての文化は、しばしば誇張された形で、その集団の成員がもつ様式的で、一般に最も強烈な心的葛藤や防衛を反映することになる。(p.121)

妬みとしての悪

妬みは人と世界との根本的な関係性を主題化する。当初は、妬みは他者のうちにある何らかの特性に対するプラスの評価に依存する。たとえこの認知ベースの評価は表出されず、頑なに否認されるとはいえ。典型的に妬みから生じるタイプの悪は、続いて価値の引き下げ、中傷、そもそも妬みを掻き立てるもとになった他者にそなわっていた特徴に対する嘲笑へと進む。

これは次の4つの仕方で生じる。あとになるほど道徳という点では順次深刻になる。(1)問題となる特性は無視されるという意味で「黙らされる」、(2)あるいは、それがあたかも存在しないかのように振る舞う、(3)あるいはそれらは嘲笑され、辱められ、非難される、(4)あるいはそれらを取り除き、消し去り、さらにはそもそも存在していたこと自体を否認する、露骨な企ての対象となる。(pp.124-5)

ナチスはこのようにしてユダヤ人を非人間的、動物的レベルに退行させた。...
親衛隊の士官が死の収容所へ向かう途中のある列車の駅で、飢えた全裸のユダヤ人たちが凍えながらうずくまり、人目に晒されて排便しているのを指さし、勝ち誇ったように叫ぶ。「そら見ろ。こいつらは人間じゃない。獣だ。白日のごとく明らかだ。」 これなど、悪をなすことが自己実現的予言であることの一例である。
....
最終的に辱めのプロセスが完了するとき、観察される「ユダヤ人」はまさにイデオロギーがユダヤ人について主張している通りの存在となる。外見が、その奥にあるとされる本質に合致するのである。(p.125)

(メラニー・クラインによると)妬みは良きことそれ自体を破壊しようとする欲望である。...なぜなら自己の外にある良きことの存在そのものが、劣等性にとり憑かれた自己への恐るべき自己愛的打撃となる耐え難い侮辱だからだ。...

妬みの中心的特徴は、罪の感覚の欠如である。...それゆえ妬みは、その傷つけようとする傾向性とともに、悪とは特に近い関係がある。(pp.126-7)

しかし悪をなすことは、それをなす者の観点からは「悪しきもの」に対する破壊である。(p.127)
...
カントは悪をなす者が、自分の行ったことは良いことであり、正当化できると主張するという事実に注目する。それが自分がなした振る舞いの倫理的に問題ありな性格についての自己欺瞞のようにしか見えないとしても。...
カントの根源的悪(radical evil)とは、このように道徳性を欲望の下僕にすることであった。(p.128)

悪は、単なる良いものの否定ではなく、それが良いからという理由で良いものを破壊することである。悪は相手が悪く恐ろしいからという理由で他者性の価値を貶めることではない。他者が良いからという理由で他者を破壊することであり、それを他者が悪いから破壊すると主張するのだ。(p.128)

他者の悪魔化
人々が他者を「悪魔化」して捉えるのは、無知や不寛容のせいではない。脅かされた自分自身のなけなしの良さを守るためなのである。(p.129)

それゆえ、悪の遂行者に対して、彼らが標的にしている人々は「実際には」善良であって悪い人々ではないと説得してみても無駄である。また犠牲者が、自分は良い人間であると示そうと努力しても無駄である。それは問題を解決することになるどころか、良さの証明は実際にはそれをさらに強めてしまい、悪の行為が降りかかる危険をより切迫したものにしてしまうのである。(pp.128-9)

内発的な悪(まとめ)

サディズム、他人を傷つけたいという欲望は、自己の不全感(弱さ、空虚さ、実存的不安、恐怖など)を、他者に自分が恐れていることを味合わせることによって、解消しようとする傾向性。

自己の不全感を喚起する他者(妬みの対象)は、こうした自己防衛のサディズムにつながる。その行為は他者を悪魔化し蔑むことで正当化され、悪を破壊する善として自己欺瞞的に経験されるが、実際は他者の善によって掻き立てられた自己の不全感、空虚さ、不安の感覚に発する、他者の善を破壊しようとする欲望である。

「要点は、悪はその外延では、その目的のために利用する別の主体との関わりを含む点で間主体的 intersubjective であるが、その起源は主体内的 intrasubjective であるということだ。」(p.130)



アルフォード理論の問題点

  1. 悪の過度の個人化と歴史的・社会的コンテクストの軽視
    すべての人間にとっての実存的な問題に悪の起源を見るアルフォードのアプローチは、悪を自己の内部の、自己にとっての問題(a problem both in and for the self)として提示する傾向を示す。悪をなすことの個人外的源泉や原因については考慮に入れられていない。とりわけ具体的な個人を悪の実践に誘導する際に働く歴史的社会的経済的等の諸要因の役割についての、アルフォードの沈黙が目につく。彼の沈黙は、イデオロギー(民族主義や人種主義、性差別など)や宗教の影響といった観念的な諸要因にも及ぶ。...(これは)個々人を超えた集団を含む悪の行為の事例に光を当てる点での彼の理論の可能性の限界である。(p.129)

    アルフォードはまた実存主義哲学に対してなされる異議申し立てに対しても無力である。あまりにも大きな強調が個人と、個人間の二項関係に置かれている。...第1章でも論じたように、悪はしばしば、一つには個々人の欲望やニーズ、もう一つには制度的な命令系統という2つものの特殊な爆発的な混合の結果である。実存的な心理=論理と、組織論的な社会=論理が途中で出会い、個人とシステムが迫害と破壊の共通の目標追求において相互に強化しあう状況において、それは爆発する。(p.130)

  2. イデオロギーの役割についての検討が不十分
    アルフォードは個人の抱える実存的不全感が、現実の他者に対する悪の実践によってではなく、文化的なモノやシンボル(物語を含む)によって解消されうる可能性について語るが、この点は十分に展開されていない。.... 悪をなす行為へと至りやすい実存的不安を主題化したイメージや物語は、抽象的で、微妙で、ファンタジー喚起的でありうるが、にもかかわらず特定の他者たちにとっては、個々人であれ集団全体であれ、危険なものでありうる。...ファンタジー性を帯びかつファンタジーを喚起する「敵表象」の、ルースさと可塑性は、あらゆる種類の恣意的な、つまり現実を歪め否認する乱用に開かれている。これらのファンタジーを特定の名前のある他者に結びつけ、「今やあらゆることに合点がいき」曖昧さと疑念がついに克服されたかのように見せる何者かが、突如出現する。すべての宿怨にけりをつけ、集団の傷ついた自己愛がついに癒される力強い未来を約束する、壮大なヴィジョンと計画に合致すべく世界に働きかけることが可能になる。たしかにこれはイデオロギーの領分であり、こうしたイデオロギーは近年の歴史の中で、あまりにも多くの悪を生み出すのに与ってきた。これがアルフォードのトピックと深く関連していることには議論の余地はない。それだけに彼がこの問題の議論をなおざりにして、文化についての抽象的な議論に終始しているのは残念である。(pp.131-133)

    集合的悪の中心的な立役者は、しばしば知識人たち、つまり専門的シンボル・ユーザであり、メディアやアカデミックな制度や政党において指導的位置を占める個人たちである。....こうした事実もアルフォードでは触れられていない。(p.134)

  3. 過度の普遍化と視点の一面性
    アルフォードは悪を、人間であることと切り離せないほどに、人間存在に深く根ざした基本的次元ととらえてしまうリスクを犯している。...バウマンが悪の深い実存的基盤を無視するリスクを犯しているとすれば、アルフォードはそれを人間の条件そのものとして永遠化することで、特定の悪のケースの構造的、状況的条件を無視してしまっている。(p.141)

  4. 複数の視座の必要性
    悪という現象の混淆的性格のせいで、別のアプローチが無視しているものに照明をあてるといった種々の異なる理論的アプローチが必要となる。一例をあげれば、組織的な集団レイプに加わる者が、アルフォードのアプローチがハイライトするような個人的心理学的理由でそうするのか、一種の実存的標的としての犠牲者を傷つけるというサディスティックな欲望でというよりは、参加している仲間の男たちという見物人たちの前で、自分の「強さ」を示す必要に迫られてそうしているのか、けして自明ではない。(p.141)

参考文献

Vetlesen, Arne Johan, 2005, Evil and Human Agency: Understanding Collective Evildoing, Cambridge University Press.

ハンナ・アーレント, 1969,『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(大久保和郎訳), みすず書房
(Arendt, H., 2010, Eichmann in Jerusalem, Longman.)

ハンナ・アーレント, 1972,『全体主義の起源1〜3』(大久保和郎訳), みすず書房
(Arendt, H., 1973, The Origins of Totalitarianism, Harvest Book.)

Alford, C.F., 1997, What Evil Means to Us, Cornell University Press.