講義メモと参考文献


A・J・ヴェトレーセン『邪悪と人為:集合的邪悪行為を理解すること』(1):序論と第一章(バウマンのホロコースト論を批判する)

予備知識

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

  1. ユーゴスラビア

  2. セルビア人

  3. ユーゴスラビア紛争

  4. ボスニア紛争

背景についてもっと知るために

書籍

柴 宣弘 1996『ユーゴスラビア現代史』岩波新書

映像作品

  1. ノーマンズ・ランド

  2. ウェルカム・トゥ・サラエボ

  3. ボスニア

  4. サラエボの花

  5. パーフェクトサークル

ヴェトレーセン『邪悪と人為』より序論

民族浄化 ethnic cleansing

1990年代に、旧ユーゴスラビアで20万人が殺害された。銃やナイフ、割れたガラス瓶などで。主要な犠牲者は民間人で、男女年齢を問わずに犠牲となった。残虐行為は秘密裏にではなく、おおっぴらに行われ、何ヶ月にもわたって連日テレビのライブ映像で流され続けた。それにもかかわらず、(あるいはそのせいで)、ジェノサイドを止めるため多くはなされなかった。(p.1)

ホロコーストとの対比

ともにトップダウンで組織され、国家の装置に支援されて遂行された、大規模で集合的な悪(p.8)

しかし前者が、犠牲者とのあいだに疎隔をもうけるメカニズム(mechanisms of distantiation)によって促進された悪であるのに対し、後者は犠牲者とのあいだの近接性を糧にはびこった悪(p.8)

匿名性の関係の中で成し遂げられる systemic なホロコーストに対して、個人的で対面的な関係がたもたれ、実行時においてもそうであったような communal なボスニア民族浄化 (p.8)



著者の問題設定
人間の邪悪さを主題化すること

定義:「悪をなす doing evil」とは

他の人間に対して、相手の意志を無視して、意図的に苦痛や苦しみを加え、深刻な予想可能な危害を相手に与えること

....人間は、悪がなんであるかわかっている。そしてこの知識は経験的なものである。つまり実践的知識であり、理論的知識ではない。(p.2)

著者の問題設定と視点
なぜ、そしていかなる状況で、こうした欲望が個人のレベルで生まれるのか、そしてそれはどのようにして、増幅され利用されて、いわゆる集合的な悪(collective evildoing)へと導かれるのかを明らかにする。(p.2)

ミルグラム以降、悪そのものは二次的、派生的現象だとされる傾向にある。悪は、かつては人間の本性の所与の傾向性として、基本的な要素であると広く考えられていたが、今やその地位は奪われ、悪は主として個々の行為者に及ぼされる社会的(環境的、状況的)制約や影響という観点で眺められている。(p.3)

ミルグラム以降、悪は個人の内に発するものではなく、「権威への服従が生み出す、しばしば意図せざる副産物」である。(p.5)

Social conformity, in fateful collaboration with 'systemic' features such as increasing specialization of tasks amid growing overall complexity, is the cause of more evil than is the once-assumed malicious --that is, evil-intending-- will of human individuals.(p.5)



人間の内発的な悪に、もっと注目すること
それが社会のシステム的な要因とどのように関わり合い、集合的な悪になるのか、その仕組をあきらかにすること



ヴェトレーセン『邪悪と人為』第一章「近代的邪悪遂行者の変哲のなさ:ジグムント・バウマンの「近代とホロコースト」批判(The Ordinariness of modern evildoers: a critique of Zygmunt Bauman's Modernity and the Holocaust)」

バウマンの議論の要約

メインの議論

ホロコーストの特質とは、大規模な邪悪行為を人間の心理の領域とシステマティックに切り離した点にある。殺害は抽象的なものになり、個人の個別のパーソナリティに基礎を置く動機や信念や感情(攻撃性や憎悪を含めて)はジェノサイドを完遂するプロセスから切り離される(p.20:ただし直訳ではなく、要約的な意訳であるので引用などの際には必ず原典にあたること)
バウマンの表現の一つを用いるなら、「大量破壊は、感情の喧騒によってではなく、無関心という死の沈黙によって成し遂げられる」ということだ。(p.20:同上)

ミルグラム実験が論拠

相手が「遠く distant」「匿名 anonymous」であることが、組織内の作業 task として evildoing を行わせることを可能にする(p.23)

距離(distantiation)と道徳の無効化(moral neutralization)の関係

近さ(proximity)で道徳的な違いが生じる。バウマンは近さと責任の間に直接の結びつきを想定する。彼の主張によると、「責任は他者との近接の中から生じる。...近接性が侵食されると、責任は沈黙する。最終的には、ひとたび仲間や同胞が他者に変容すると、責任は憎しみに取って代わられる(Bauman:240)」(p.24)

ヴェトレーセンによる批判

「近さ」の曖昧さ

近さは曖昧な言葉だ。それは単に空間的な問題なのか、心理的な問題も含むのか。 ミルグラムの実験で壁を隔てた見えないところにいる犠牲者が、被験者の知人であることがわかっていたらどうだろう。
Baumanが依拠するミルグラム実験は単純な変数しか考慮に入れていない。犠牲者が知人であるかどうか、犠牲者の年齢(犠牲者が子供であるか大人であるかで違いはないのか)、民族帰属などは設定されていない。(p.25:要約的意訳)

ホロコーストにおいては、単なる空間的な「近さ」が問題だったのではない。相手が「ユダヤ人」であると知っていることが大きい。ユダヤ人に対する否定的な見方が刷り込まれており、そのことが相手がユダヤ人である場合に、その相手に対する暴虐を可能にした。
たしかに多くのナチは「単に命令に従っただけだ」という決まり文句を口にするだろうが、なぜこれらの個人が進んでそうしたことをしたのかというと、犠牲者がほかならぬそのアイデンティティをもっていたことが決定的だったというのが真相なのだ。(p.27:要約的意訳)

Goldhagenによる挑戦の意味

射殺する犠牲者を自分で選び、森のなかの射殺場所まで相手を伴った後に射殺した101大隊の警官の例

Goldhagenによると、相手を「ユダヤ人」とイデオロギー的に認知することで、それを一人の(例えば)12歳の少女として見ることができなくなる。
つまり認知的ブロック Cognitive block がかかる。(p.31)

この事例の意味は、邪悪な行為が近接においても盛んに行われうることを示したことだ。
近代的であれ、ポスト・モダンであれ、人種的、民族的、宗教的いずれのラインにそってのイデオロギー化であれ、邪悪な行為は、距離や、不可視性や、匿名性には依存しない。(p.32)

ここでかかるブロックは、単に認知的な cognitive ものではなく、まず第一にそして圧倒的に感情的な affective ブロックである。...
イデオロギー的に決定されたこの特定の他者に対する認知様式が、共感力 faculty of empathy から湧き出てくる優しい気持ちを抱く能力 capacity for affection を阻害する。(p.32)

ゴールドハーゲンの事例も、ボスニアのセルビア人による民族浄化のケースも、実行者と犠牲者の遭遇は物理的近接性を特徴とする。...たしかに、実行者たちは、犠牲者を見、その声を聞き、その体に触れる。それでいて彼らは彼女を「経験」していない。彼女は殺害者になんの印象も残さないし、彼女は殺害者の中になんの痕跡も残さぬまま、殺害される。

しかしゴールドハーゲンとバウマンは同じ現象を研究しているとは言えない。ゴールドハーゲンの事例はいずれも、強制収容所の外で、あるいはそれ以前に行われた行為である。それに対し、バウマンはホロコーストを完遂していく過程で勢いをつけてきた技術的道具的ロジックを研究している。

収容所での大量処理には、犠牲者に対する憎しみの感情はかえって邪魔になる。事務的効率性によってのみ可能である。一方警官隊の森での殺害は憎しみの感情がそれを引き起こしている。したがってバウマンの議論が無効になるわけではない。
バウマンの主張は、1942年以降、実行者と犠牲者のあいだに距離を置くことが、ホロコーストの必須条件となっていったというものである。

近接性と疎隔の共存

しかしバウマンと同様に、強制収容所のシステムについて研究した歴史家たちからも、バウマンの議論に対する深刻な反論となる資料が提出されている。それによると、「収容所での『工業化された industrialized』殺害にいたるまでのあらゆる段階で、実行者と犠牲者の間の隔たりはけっして通例ではなかった。」収容所内部すら、ナチの職員と囚人との直接の身体的出会いに満ちており、近接性は避けられるどころかしばしば好まれ、故意に維持されていた。それは最大の苦しみを相手に与えるのに適した状況だったからだ。そこでは囚人たちに不必要な苦痛を与える過剰な残虐行為が繰り広げられていたのである。(pp.36-7:以上要約的意訳)

そうした振る舞い(対面的直接的状況での過剰な残虐行為:浜本註))は、効率性・技術性をかすませてしまう演劇性を特徴とする。彼らは仲間向けに、これみよがしにユダヤ人に対して行うにふさわしい振る舞いを演じ、見せつける。「そこでは、技術的熟練と演劇的顕示はまざりあい、互いを強め合い、イデオロギーから誘導された犠牲者に対する憎しみから、その養分を補給するのである」(p.39)

「そこでの暴力が、単に計画され、選択されているだけでなく、同時にまったく理由のない gratuitous ものであることを忘れてはならない。アウシュビッツの生き残りのプリモ・レヴィが述べているように、それは「無用な暴力」なのである。アウシュビッツという名前の人工的地獄の門の内部には、ひとときの過剰と、一種の楽しみ、さらに言えばあふれんばかりの活気すらあった。」(p.39)

バウマンの議論に不利なもう一つの事例

イェドヴァブネ事件
イェドヴァブネ事件(ウィキペディア)

1941年7月にポーランドの町イェドヴァブネで起きたユダヤ人大量虐殺事件
7月10日に8人のドイツ人のゲシュタポがやってきて町の代表者たちに、町にいるユダヤ人をどうするつもりか尋ねた。人々は一致してすべてのユダヤ人は殺されるべきだと答えた。ゲシュタポが、それぞれの職業ごとに一つの家族を殺さずに残すよう提案があった時、町の大工のシュレジンスキは、職人に不足はないので、全員を殺すべきだと答えた。カロラク市長はじめ全員がそれに同意した。その会合の後、町のゴロツキの若者たちが斧や棍棒その他で武装し、ユダヤ人たちを追い出して通りに集めた。その中から最も若く健康な75人を選び出し、町の広場の巨大なレーニン像を運ぶよう命じた。そのための穴を掘らせ、レーニン像を投げ込んだあと、運んだユダヤ人たちは斬り殺され、同じ穴の中に埋められた。(Gross 2001:18)(p.39)

前日ドイツ人たちがすべてのユダヤ人を殺せと指示を出していたことは確かであるが、その指示を受けて、もっともおぞましいやり方でそれを実行したのはポーランド人の市民たちであった。さまざまな拷問と傷めつけの後、すべてのユダヤ人は納屋に集められ、そこで焼き殺された。数多くの残虐行為の中でも、町で一番の美少女でユダヤ人小学校の教師の娘であったギテレ・ナドリーのたどった運命は極め付きである。彼女は首をはねられ、殺人者たちはそれを町の広場で蹴り回した。(pp.39-40)

背景にはユダヤ人による ritual murderの噂、ユダヤ人がソヴィエトの内通者であるという噂など

人々はドイツ人の到着を熱狂をもって迎えた。おそらくドイツ人たちは、土地の非ユダヤ人たちにとって、さあ、やれ!もうユダヤ人を殺しても誰も罰せられないぞという、青信号として受け止められたのである。(p.40)

これは、バウマンの、トップダウンで組織されたゲゼルシャフト型の集合的悪というジェノサイド・モデルの対極をなす、ゲマインシャフト型のジェノサイド・モデルである。そこでは匿名性や、非人格性、疎隔といった要素が、まさに欠けている点が特徴である。(p.41)

私の要点は、バウマンがすっかり間違っていたということではない。イェドヴァブネの歴史的代表性、あるいはその欠如がどうであれ、それは実際に起こった出来事であり、ある種の状況下では近接性と悪の行為が、互いに排除するどころか、実際に共存し、殺害という目的にむけて働きうるということを様々な点で示している。(p.41)

以上の結論

邪悪は複合的で、雑多な、現実的な現象であり、どれか特定の理論モデルに合致することなどめったにない。(p.42)

デスクワークと実際の殺害現場を行き来していたハイドリッヒのように、一人の実行者のなかに、同時に過激なユダヤ人嫌い、申し分ない官僚、自称知識人、カリスマ的リーダー、細かい手続きにこだわる一方、無力な人々に対しては空前の残酷さを見せつける演技者といった特徴が結合して現れる。
バウマンの議論は、こうした現実の前にそのもっともらしさをかなり失ってしまう。(p.43)

官僚制の現実

バウマンにとって、ホロコーストは、大量殺人が官僚化された、非人格的、目的合理的な形態をとり、その形態が殺人のもつ特殊人間的、道徳的内容を打ち消しているという理由から、本質的に近代性を反映している。しかしホロコーストの遂行において、官僚制がそんな風に機能したというのは本当だろうか。(p.44)

実際にはナチスは、ワイマールから引き継いだ官僚制を攻撃し、なし崩し的に変容させてしまっていた。Gayが述べるように、「全体主義体制は近代社会が脱人格化し、脱政治化しようとしてきたものを、人格化し政治化する傾向がある」
脱人格化、つまり人々を、地位や帰属とは切り離して、個別事例として扱うこと、官僚が自分の個人的な同情や反感を括弧に入れること、同様なケースを同じやり方で扱うことといった原則は、犯罪的な政策や実践上の非道徳性とはウマが合わない。
ナチスは官僚制をむしろ前近代的なものに変容させた。(pp.44-5:要約的意訳)

バウマンは近代の官僚制そのものが、ホロコーストで示された種類の非道徳性をはらんでいると考えている点で、誤っている。

官僚制の構造がナチによって乗っ取られ、そのイデオロギー的目標のために流用されたときに、それは大量殺戮のための円滑な手段( a smooth vehicle for mass destruction)となったのだ。(p.50)

個々人の欲望と制度的目標が出会う場所

道徳的傾向性が内在するとのバウマンの見解は一面的。他の傾向性についてはどうなのか。

さらに、バウマンは「原初的な道徳的欲動 'primeval moral drives'」に訴えるが、このことは、同じく原初的でありながら、とても道徳的であるとは言えない他の諸々の欲動は存在しないのか、という疑問をいざなう。もし存在するのだとすれば、バウマンはそれらについてはどう考えるつもりだろう。なにもフロイトの生得的な死への欲動(タナトス)やコンラッド・ローレンツの攻撃本能の重要性の指摘を持ち出す必要もなく、バウマンの暗黙の人間学がいかに一面的であるかは明らかである。
とりわけ、後に詳しく示すつもりだが、バウマンはホロコーストのような集合的悪において働いている特殊な弁証法を見過ごしているように見える。いったいどのようにして、冷血な目的合理性がその「正反対の他者」の引き金を引き、それと相互作用するのだろうか。どのようにして近代のウェーバー的合理性の側面が、ジェノサイドのような暴力の激発を招くというのだろう。つまり、どのようにして、目的に向けられたものではない活動の必要性を拒むことが、最終的にはとてつもないスケールでの感情の激発に行き着くというのだろうか。....(p.47)

バウマンのモデルにおいては、集合的悪は、逆説的に見えるかもしれないが、一人ひとりをとれば悪への邪悪な意志--他人に苦痛をあたえたいという意志--、おそろしく非道徳的な行為の中に通常期待するような邪悪な意志を、ほとんどあるいはまったく示してなどいない、無数の個々人によってなされる。
バウマンの説明のなかでは悪は、結果のなかにある悪であり、それを行った個々の実行者や彼らの動機の中にはない。欲望することと実行することのあいだのリンクが切れてしまっている。そしてその結果は、曇りひとつない良心の持ち主である実行者による悪行というわけだ。....彼が、自分の感情や思考や願望を、彼の振る舞いから完全に切り離すことができればできるほど、よいのだ。(p.49)

しかしイデオロギーと個人の動機と、ジェノサイドの装置の関係ははるかに複雑である。

例えば生体実験を行った医師たちのケース

バウマン批判するポイントは、イデオロギーと専門職業と殲滅とのあいだの共生(symbiosis)は、近代社会に特徴的な諸制度の直接的な産物であるとは言えないという点である。むしろそうした共生は、きわめて特異な諸要因の特殊な配置の結果として生起した。なかでも、殺しても差し支えないという許可を与えた、ナチの人種イデオロギーの役割は決定的である。....
しかしそのようなイデオロギーは、個々人のなかに見いだされる、深層の実存的心理傾向 --ニーズや渇望、欲望や恐れ-- とそれが共鳴するという条件のもとでのみ、人々を実行に踏み切らせるだけの動機となる。集合的な悪は、個々人の信念や欲望と、彼らがその中で必要とされる行為を遂行する諸制度がマクロレベルで追求している目標との、分離のうえに成り立つというよりは、そうした組織された悪は、こうした個人的要因と制度的要因が、道半ばで出会うとでもいった状況のなかで、しばしば生起するものなのだ。(p.50)

参考文献

Vetlesen, Arne Johan, 2005, Evil and Human Agency: Understanding Collective Evildoing, Cambridge University Press.

ジークムント・バウマン、2006『近代とホロコースト』(森田典正訳)大月書店
Bauman, Z., 1989(1981), Modernity and the Holocaust, Polity Press

Browning, Christopher R., 1993, Ordinary Men: Reserve Police Battalion 101 and the final solution in Poland, Harper Perrennial.

Goldhagen, Daniel J., 1996, Hitler's willing Executioners: Ordinary Germans and the Holocaust, Knopf.

Gross, Jan T., 2001, Neighbors: The Destruction of the Jewish Community in Jedwabne, Poland, NJ: Princeton University Press.