講義メモと参考文献


Z・バウマン『近代とホロコースト』(3)

第4章「ホロコーストのユニークさと通常性」

ホロコーストのユニークさ

(ホロコーストは)過去の大量殺戮の歴史のうえにひときわ高くそびえている(p.115)

近代のホロコーストは二重の意味でユニークであった。まず、歴史的大量殺戮のなかでもそれは近代的であるからユニークなのであった。それはまた、近代社会の散文的日常世界にあって、ふだんは分散した平凡な要素を結合したからユニークなのであった。(p.122)

(1)憎しみや激情を原動力としない大量殺戮

<水晶の夜>を積み上げてもホロコースト規模の大量殺戮は発想できないし、また、実行しえない。(p.116)

数を考えてみよう。ドイツ国は約六〇〇万人のユダヤ人を抹殺した。一日、100人の割合でいくと、 ほぼ、二〇〇年かかることになる。群衆暴力は誤った心理的基盤、 つまり、暴力的感情にのっとって いる。人々を激情にはしらせることはできるが、激情を二〇〇年維持することはできない。激情やその生物学的原因には自然な継続期間がある。性欲、また、血の飢えでさえも最終的には満足する。さらに、感情は周知のとおり気まぐれで、また、別の感情に変わることもある。リンチ集団はあてにならない。リンチ集団は子どもが苦しむのをみて、同情をおぼえるかもしれないからだ。「人種」の抹消には子どもの殺害が不可欠なのに。
完全なる殺人を徹底的・包括的におこなうには、暴徒ではなく官僚制度が必要であり、共有された 激怒でなく権威への服従が必要である。(p.116)


(2)目的をもった殺戮
近代的大量殺戮は目的をもった大量殺戮である。敵の排除は目的ではない。敵の排除は目的のための手段にすぎない。それは究極的目標に由来する必要性、この道の遠くにある目的地に到着するためにとらなくてはならない一歩なのだ。その目的とはこれまでとはまったく違った、よりよき社会の建設である。近代的大量殺戮は社会工学の一部であり、完全なる社会の設計図に適合する社会秩序をもたらす。(p.118)

「造園文化 garden culture」としての近代文化

近代文化は造園文化だといっていいだろう。理想的生活と人間をめぐる状況の完璧なアレンジこそ、その自己定義である。...全体計画のほか、庭園の人工的秩序は道具と天然資材を必要とする。また、庭園は無秩序の強い危険に抗するための防御も必要とする。最初に立案された設計図からできあがった秩序はなにが道具で、なにが天然資材で、なにが不要で、なにが無関係で、なにが有害で、なにが雑草で、なにが害虫かを決定する。....設計の観点からすれば、あらゆる行動は道具的なものであり、一方、行動のあらゆる対象は道具か邪魔物のいずれかなのである。(p.119)

完全なる世界の設計者の思考、感情、夢想、そして、欲望はスケールは小さくとも造園家にはよく知られたものである。計画を台無しにする、美のなかの醜、静謐なる秩序のなかのゴミである雑草を、ある造園家は積極的に憎悪する。別の造園家はそれを解決の必要のある問題、なされねばならぬ特別の仕事くらいにしか考えず、むしろ、無頓着である。しかし、雑草にとっては同じことである。どちらのタイプの造園家も雑草を根絶やしにするのだから。(p.119)



近代的大量殺戮は近代文化全般同様、造園家的な仕事であった。それは社会を庭圍として扱うのであれば、避けて通れない多くの日常作業の一つにすぎなかった。庭園設計が雑草を定義すれば、庭園のどこかにはからなず雑草が発生する。そして雑草は除かれねばならなかった。除草は創造的であっても、破壊的行為ではない。(p.120)

ホロコーストは完璧に設計され、完全に管理された世界をつくろうとした近代的欲動が抑制を逃れ、野放しにされたときの副産物であった。近代がこうなることは例外的である。その野望は人間世界の複数性と衝突する。 近代のそうした野望はあらゆる自立的対抗勢力を無視し、押しのけ、圧倒する絶対的権力と独裁的人物を欠いた場合、実現しえない。(p.121)

合理的行動という近代的手段を独占できる絶対権力がモダニスト的な夢を抱き、それが効果的な社会制御の縛りから自由になると大量殺戮が発生する。(p.121)

(3)近代を特徴づける平凡な要素の結合の恐ろしい効果

文明化プロセスにより、自然の欲望が人工的で柔軟な人間行動のパターンにとってかわられたいまとなって、自然の性向が人間の行動を導いていた頃には考えられなかったような規模の非人間性と破壊が可能となった(p.124)

平凡な諸要素たち

  1. 機能による厳正な分業
  2. 道徳的責任と技術的責任の置き換え
  3. 対象物の非人間化



  1. 機能による厳正な分業
    あらゆる分業は、ほとんどの作業者と、共同作業による結果のあいだに懸隔を作り出す。(p.127)

    最終結果からの実践的・心理的懸隔が意味するのは、官僚制のヒエラルキーに属すほとんどの役人は、自らの命令のもたらす結果を完全に知ることなく命令を下すということである。(p.129)

  2. 道徳的責任と技術的責任の置き換え
    官僚制度内の複雑な機能分化のおかげで、自らが実行する作業の最終結果から切り離されると、官僚の道徳的関心はもっぱら行っている仕事の性向にだけ集中する。道徳とはとどのつまり、優れた、効率的な、勤勉な専門家、労働者になれという指令なのである。(p.131)

  3. 対象物の非人間化
    非人間化は官僚的操作が行為と目的の分離の結果、量的な問題と化した時点から始まる。鉄道の管理者たちにとって、仕事の成否はキロ当たりの運搬貨物量からなる。彼らが運ぶのは人間や羊ではない。単なる貨物であり、重要なのはその質ではなく量である。(p.132)

    兵士は標的を撃つように命令され、標的は当たれば落ちる。....福祉事務所の役人は一方で自由裁量補助金を、また一方で個人信用貸しを扱う。その対象者は補足給付の受給者と呼ばれる。こうした技術用語の裏側に人間の影を探しだすのは難しい。(p.133)

    一度、効果的に非人間化され、道徳的要求の主体であることも否定されると、官僚的作業は人間という対象を倫理的関心をもっては扱わなくなる。そして、人間の抵抗、あるいは、非協力が官僚的ルーチンの円滑な遂行の障害になると、倫理的無関心はたちまち非難と警告に変わる。....したがって、人間という対象は「厄介要因」でしかない。(p.134)

第5章 「犠牲者の協力を請うて」

ユダヤ人の協力

しかし、ユダヤ人の協力が、そして、あれほどの規模の協力がなかったならば、大量殺人の複雑な作戦 はまったく大きさの異なる技術的・財政的問題で役人たちを悩ませただろう。(第一章でも述べたように、)運命づけられた共同体の指導者たちは作戦が必要とする準備的事務作業のほとんどをこなし(ナチスに資料を提供したほか、将来の犠牲者の情報をファィル化した)、ガス室が犠牲者を迎えるときまで彼らを生かしておくのに必要な生産・配給活動を監督し、法と秩序の混乱がナチスの能力と資源に負担を与えないよう囚人を監視し、段階ごとの目的を明示することで殲滅プロセスの円滑な流れを確保し、最小限の労力で受領できるよう物資を配給し、そして、最後の旅への費用をまかなうための資金を調達した。こうした 多様な実質的援助がなかったとしても、ホロコーストは起こっただろうが、おそらくいまとは違った形で 歴史に名をとどめていただろう。(pp.152-3)

ナチスの当初の究極目標は大量殺人ではなく、ユダヤ人の完全<除去>、すなわちドイツ民族の生活圏からユダヤ人を効果的に排除することであった。(pp.154-5)

したがって、最終解決の初期段階における状況は、大量殺戮作戦の犠牲者が「通常」経験するものではなく、逆説的にも、通常の権力構造内の従属的集団が経験するそれに近いということだった。驚くべきことに、ユダヤ人は自らを破壊する社会制度の一部であった。彼らは連携作業の輪の重要な接合部をなしていた。彼ら自身の行動は作業全体の必要不可欠な一部であり、作業成功の決定的条件でもあった。「通常の」大量殺戮は関係者を殺害者と被殺害者に分ける。後者にとっては、抵抗だけが合理的反応である。ホロコーストにかんするかぎり、区別は曖昧であった。全体的権力構造に組み込まれ、その内部で広範な任務と機能を与えられた集団には、反応の選択にかんしても広い幅がありえた。不倶戴天の敵、未来の殺害者への協力でさえ、あながち非合理的な反応だとはいえなかった。ユダヤ人たちは生き延びるための合理的目的に従った行動をとりながら、自ら抑圧者の手中に飛び込み、抑圧者の行動を容易にし、そして、自らに破滅をもたらしたのだ。(p.157)

(問題となるのは)自らの決定的利益に反するものであっても、あえてそうした行動を行為者に取らせる官僚組織の近代的・合理的能力である。

標的集団の分離

ユダヤ人たちにとって『外』の世界は消えた。外の人々の関心からユダヤ人のことは消えた。

1935年の段階で、ユダヤ人はすでに自分たちには隣人がいないと悟っていた。彼らは他者との連帯を頼みにすることができなかった。...距離的にいかに近い人々でも、精神的には遠くかけ離れていた。....
外の世界が消えると、「状況」の境界も崩れる。すると迫害者の絶対的権力以外は考慮されない形で境界が再設定される。ドイツ人たちは長いあいだユダヤ人のことをその心と頭からきれいに消し去っていたから、彼らが物理的に排除されても気づく者は少なかった。(pp.159-160)

分離の諸段階

  1. 反ユダヤ主義プロパガンダ
    分離のもっとも直接的な方法は反ユダヤ主義に訴えることであり、それまで「ユダヤ人問題」に無関心だった、あるいは、無知であったドイツ国民の反ユダヤ主義的感情を煽ることであった。....
    しかし、反ユダヤ主義の教育効果には限界がある。多くの人々は憎悪のプロパガンダに....動かされなかった。またほとんどの人々はユダヤ人の公式定義を抵抗なく受け入れながら、彼らが個人的に知るユダヤ人にはそれを当てはめようとはしなかった。(p.160)

  2. ユダヤ人の法的定義とマーキング
    (これらの補強手段は)段階ごとに当初の目的は達成されなくとも、ユダヤ人とそれ以外の人間の隔たりは大きくしたし、またあるメッセージも伝え続けた。それはユダヤ人がどんな悲惨な目にあっても、残りの国民の立場に悪影響はないから、ユダヤ人の運命と彼らは無関係だというメッセージである。(p.161)

  3. 知識人たちの沈黙
    分離プロセスにはドイツ社会における組織化された伝統的エリート全員の圧倒的沈黙が伴われていた。近づきつつある惨事を世界に向かって警告できた人たちの沈黙。(p.162)....
    彼らは全員、自らの関心を守り、擁護しようとした。そして関心度の低いものに口を閉ざすことによって、彼らは真の関心を守ったのである。(p.164)

「救えるものを救え」のゲーム

ユダヤ人の段階的強制移送があれほどうまく成功したのは、移送を逃れた者たちが、多数を救うためには少数の犠牲もやむなしと理屈付けしたからである。(p.172)

ワルシャワのゲットーのユダヤ人たちはドイツ人が移送するのは六万人だけで、一〇万単位ではないという理由から、協力を説き、抵抗に反対した。二分的現象はサロニカでも起き、ユダヤ人指導者たちは貧民層の「共産系分子のみを強制移送し、「中産 階級」には手はつけないという保証のもとドイツ軍にたいする協力をおこなった。(p.173)

最終段階を除く破壊の各段階には救えるものだけを救い、守れるものだけを守り、明女されるものだけを免除しようとする熱心な個人や集団がいた。(p.174)

集団破壊に尽くす個人の理性

今日、誰もが知るように、「救えるものを救え」の作戦は、いかに合理的だったとしても、犠牲者の救出にはいたらなかった。そもそもそれは犠牲者のための作戦ではなかったのだ。それは殲滅を誓った力が計画し、実行する破壊の延長線上にある追加的なものだった。「救えるものを救え」の作戦を実行したものたちは、すでに犠牲者としての烙印をおされたものたちであった。犠往者の烙印をおしたものたちは、一部のものだけが救われ、存在が許される状況、ゆえに、「生存の代償」、「喪失の回避」、「より小さな必要悪」といった打算が働くような状況をつくりだした。こうした状況においては、犠牲者の合理性は彼らの命を奪う人間たちの武器となる。とするならば、被支配者の合理性はつねに支配者の武器となる。(p.184)

自己保存の合理性

抑圧の成否は....不合理な環境においても人々を、少なくとも一部の人々を、合理的に行動するよう、一時的にせよ、仕向けられるかどうかにかかっている。....そしてまた、全滅に至るプロセスを究極的には細かな段階に切断できるかどうかにかかっている。裁断された各段階という狭い範囲で考えた場合、生存の合理的基準に従った選択も可能となるからだ。最終的には結合されて<最終解決>に繋がる諸行為は、ホロコーストの実行者の立場から見るならば、すべて合理的なものだといえるだろう。そしてこれらの殆どは、犠牲者の立場から見ても合理的なのだ。(p.185)

第6章 「服従の論理:ミルグラムを読む」

ジェノサイドの実行者たち

あなたや私のようなふつうの人間にどうしてそんなことができるのか。微妙に些細な形ではあっても、彼らとわれわれは絶対にどこかで違うはずだ。....(p.197)

           ナチスの勝利はそうした人たちが普通以上に多く集まった
           結果であった。(p.199)

           ナチズムが残酷だったのはナチスが残酷であったからだ。
           そして、ナチスが残酷だったのは、残酷な人間がナチスになる
           傾向が強かったからだ。(pp.199-200)
                  

ホロコーストとその実行者にかんする知見から得られる戦慄の結論は「これ」が場合によってはわれわれにも起こるかもしれないということでなく、我々もこれをおこないうるということである。(p.198)

ミルグラム実験

残酷さは権力者と従属者の関係と非常に密接に関連し、また、われわれが日常的に体験するふつうの権力と服従の構造にも関連する、というのがミルグラムの発見である。良心に照らして、盗みや殺人や膀胱を嫌う人間も、権力に命じられると、比較的容易に残虐行為をやってのける。自らの判断では到底できないような行為を、命令であるならば、個人はいともたやすく実行する。(p.200)

ル・ボンによれば、こうしたこと(すなわち、常識ある人間が常識に欠けることを犯すこと)が認められるのは、人間的交流における通常の、合理的・文明的バターンが崩れた場合である。また、憎悪やパニックによって集まった集団のなかにおいてである。あるいは、通常の文脈から引き離され、一時的だとしても、社会的空白のなかに宙ぷらりんになった見知らぬもの同士の偶然の出会いにおいてである。そして、パニックの叫びが命令をかき消し、権威でなく、殺到する足音が方向性を決定する群衆で埋まった広場においてである。考ええないものは人々が考えるのをやめたときに起こる、とかつてわれわれは信じていた。 理性の蓋がとりはらわれたときに、人間の前社会的・非文明的惑情が現われるとも信じていた。人間性はすべて理性的秩序の側にあり、非人間性はすべて理性的秩序の崩壊にさいして起こるという、古い世界観をミルグラムの発見は逆転してみせた。(p.201)

被害者との距離、行為の分割

ミルグラムの発見でもっとも印象深いのは、残虐行為の起こりやすさと犠牲者への距離の反比例関係である。....

権カヒエラルキーによって立案され、設定された段階への行動の分離、機能的専門性による行動の分割、行動の仲介は合理社会のもっとも顕著で、誇らしげに喧伝された功績である。ミルグラムの発見の意義は、合理化のプロセスによって、意識的でないとしても、結果的に、非人間的で残酷な行為が容易になったと明らかにしたことにある。行動の組織のされ方が合理的になればなるほど、(他者の)苦痛を引き起こすことが容易になり、自分自身にたいする不安も解消される。(p.203)

道徳化された技術

官僚制度における権カシステムの顕著な特徴は、各行動の道徳的非正常性をみつかりにくくしたことであり、みつかった場合は、道徳的ジレンマに変えたことである。官僚制度において、役人たちの道徳的関心の焦点は行動の対象が経験する苦悩には向けられない。それは強制的に別方向へ、すなわち、 遂行されるべき任務と遂行の効率へと向けられる。行動の「対象」の立場、それの感情はほとんど問題にされない。問題になるのは上司からの命令を実行者がどれほど賢明に、効率的に実行したかである。(p.208)

「部下は権威に命じられた任務をどれほど適切にこなせたかによって、恥じたり、自慢に感じたりする。」(p.209)

官僚制度的権威システムは道徳的基準を直接的には攻撃せず、また効率的行動の冷撤な合理性に矛盾する本質的に不合理な情緒的圧力として排除したりもしない。じっさい、システムはそれを利用、あるいは、再利用する。官僚制度の二重の業績は一方で技術を道徳化し、他方で非技術的問題の道徳的重要性を否定したことにある。(p.209)

参考文献

ジークムント・バウマン、2006『近代とホロコースト』(森田典正訳)大月書店
Bauman, Z., 1989(1981), Modernity and the Holocaust, Polity Press

ホロコースト(wikipedia)

The Holocaust(wikipedia)

水晶の夜(wikipedia)

Kristallnacht(wikipedia)